Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づきには何が必要なのか?

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

いつもね。
よく聞かれるのが、
「気づきには何が必要なんですか?」
「それは恩寵なんだそうですが、どうすればそれを得られるんですか?」

みたいなね。
そんな質問です。

というわけで、今日はこの辺のことについて書いて見たいと思います。

 

さてさて、
そもそも気づきに必要なものなんてありません。

ここで何かが必要なんじゃないのん?
って思うのは、気づきに対して、何かしらの勘違いをしているんだと思うんです。

どんな勘違いなのかというと、
何かに気づくには?
といったような捉え方をしているんだと思うんです。

何かというのは、例えば恩寵ということかもしれませんし、
悟りということなのかもしれません。
言葉はなんでも良いから、いわゆる「それ」。
この「それ」に気づくにはどうしたらいいのか?
といった考え方になっているんだと思うんですよねー。

「それ」に気づくというのと、「気づき」というのは意味合いが違うんですよね。

「気づき」というのは、「それ」に気づくということじゃなく、
そもそも「気づき」しかないよねー?ということなんです。

なんていうか、「気づき」が「それ」なんです。

なので、「気づき」には何が必要なんだろう?という問いに関しては、

もうすでに「それ」なので、必要なものはない。

ということになっちゃうんですが、
もっと詳しくいうと、「必要なものがあってはダメ」ということにもなるかもしれません。
つまり徹底的に無条件であるということです。

「気づき」に条件は必要ありません。
条件という概念は、「気づき」のあとにくっつけられていくものですのでね。

条件を探したり、つかみとったりして「気づき」を得ようとしても、
その得ようとする思い自体が、「気づき」から遠ざけられてしまうんですよね。

あ、もちろん実体として、遠いも近いもないんですけどね。
だから、ずっとココにあるわけなんですけどね。

恩寵というのはたまたま誰かに与えられるといったイメージがありますが、
この「気づき」や「それ」に関しては、そうではありません。

それはすでに与えられているんです。もともとあるもんなんです。
すでにあるということを見抜くかどうか?
それだけなんです。

条件や概念、また観念といったもの。
そんな何かしらのものをつかみとっているからこそ、
そのつかみとったものを通して世界を認識しちゃってるってだけなのでね。

何が必要なんだろう?と何かを探求するというよりは、
どんな不必要なものを持っているんだろう?
っていうね。
自分の中をみてみたらいいんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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