Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分をするっとかわしてその奥へ

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ぽぽぽぽーんっ!
はい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
心地よいリラックスライフをお過ごしでしょうか?

メリハリのあるリラックス!
これがどうもいい感じがしますよね。

ダラーってしてると、それはそれで身体もしんどくなっちゃいますもんね〜。

さてさて、
僕は若い頃は根拠のない自信を持つのが得意だったんですが、
最近は、そもそも自信って持つ必要ある???
って感じになっております。

だって、自信って持つ以前のものですもんねぇ。
自分に対して信じる必要ってある??ってことですもん。
それすら、いらないって感じです。

だって、自信を持っていれば大丈夫っていうのも、
これまた根拠ですもんねー。

 

ぼくらは、何かが起こるには原因がある。
という一つの概念にどうしても引っ張られがちです。

いわゆる、因果の法則というやつですね。

因果というのは、後付けのでっち上げのようなものなんですが、
この概念をどこかで信仰していますと、
物事には必ず原因があるはずなので、
何をするにも、ちゃんとうまくいくための根拠が必要だ。
といったような観念に巻き込まれちゃうというわけです。

この観念が、
何かを成すには、自信が必要になってきますし、
自信を持つには、その自信を持つに足る根拠が必要となってくるわけです。

そして、何をするにもその根拠探しに熱中するあまり、
なーんの意味もなく、ただお茶を飲んでほっこりする。
ということに意義を感じられなくなったりしてね〜。

いつしか、意味や意義の奴隷になっちゃうんですよね。

そして生きるのにも、根拠が必要であるような錯覚がおきちゃったりしてね。

人は何のために生きるのだろうか???
私は何のために生まれたのだろうか???

と考え始めちゃうというわけです。

人以前に、私以前に、ぼくらはもう生きているわけですし、
生きていることこそがもうすでに完成してるというわけですので、
そこに根拠をつける必要はないんです。

そして僕らは、根拠や、それが根拠となるための条件ばかりを見るので、
ここにあるダイレクトな「生」を見逃しちゃってるんです。

「生」は何も付け加えなくても、これでもう至福であり喜びであり、
エネルギーそのものです。

究極のリラックスとは、このダイレクトさに触れるということなのかもしれませんね。

ダイレクトさに触れた途端、そこに溶けあいます。
このダイレクトさとは、エネルギッシュな静寂なんです。
溶け合った時、そこにはもうこのダイレクトさしかありません。

それこそが「それ」であり、全てなんです。

僕らが掴んでいる条件や根拠は、自分で掴んだものですのでね。
自分でさかのぼることができます。

そのためには、今掴んでいる条件や根拠を、ちょっと脇に置いておいたらいいんです。

するとその奥に、「自分」としていた感覚が残ると思うんです。

この「自分としていた感覚」をねー。

なんていうか、するっとかわして裏側に回ってやるといいんです。

すると、この「自分」さえも一つの条件だったことに気付けるかもしれません。

ですが、そのことに気づくことが目的ではありません。
その気づきもまた、一つの風景に過ぎないんです。

掴むものもない何でもないココに、ただ漂ってみるといいと思います。

それは、ファッと力の抜けたリラックスとエネルギッシュな全てが同時に存在する、
愛おしい静寂なんです。

 

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