Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行為と主体者と空と僕。

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はぁぁぁう!
おはようございます。

青空をぼーっとみてると、なんだか吸い込まれそうな気分になってくるタクさんです。

みなさんも素敵なスカイウォッチングライフをお楽しみでしょうか?

空は青く広がったり、雲が覆ったり、雲が黒く染まり雨を降らしたり、
赤くなったり、星が広がったりと、もうまるで万華鏡のようですよね。

まさにダイナミック!

世界中の人に向けて、有史以来、このイリュージョンをずっと展開し続けている。
って思うと、もうどんなエンタメも叶わないんじゃないだろうか?

なんて思ったりします。

もちろんこのイリュージョンは空だけではありません!
空のイリュージョンはありとあらゆる自然現象というイリュージョンの
ほんの一部なんです。
さらには空の向こう側では、ダイナミックな宇宙のイリュージョンが展開されています。

そんな宇宙や大自然のイリュージョンを見ていると、
自分はまるで観客のように感じたりもするわけですが、
この空はまさに僕らを星ごと包み込んでいて、
イリュージョンを展開させているわけです。

ぼくらもまた、このイリュージョンの一部であり、演者なんですよねー。

この壮大なイリュージョンには、
演出家も脚本家も存在しません。

この広大なイリュージョンを指揮する指揮者もいてません。

指揮者のいない中、まさに完璧に展開されているんです。

 

さてさて、
僕らが一番混乱していること。
というのは、誰がやっている?
行為者はどこにいる?

という思いからくる問題かもしれませんねー。

僕ら人間が持つこの行為者という思いが、
行為者のいない大自然や宇宙のなりわいを神の仕業としたりしていますが、

行為者というのは一つのアイデア、概念に過ぎないんですよねん。

もしかしたら、人だけが、行為者という概念をもっているのかもしれませんねぇー。
そしてこの概念が僕らを大いに混乱させとるっ!というわけです。

行為者という概念があると、
行為者である私は、次に何をすべきか?を考え続けなきゃなりません。
そして、すべきことは正解である方が好ましいわけです。

となると、何をすべきかを選択しなきゃいけなくなるわけですが、
正解を選択するには、何が正解なのかを知らなきゃならないですし、
どうすれば、正しい選択を行うことができるのか?
を考え続けなきゃならないわけです。

そういうねー。
いろーんな混乱の種がねー。
僕らを探求の道にいざなう!っちゅうわけなんですよねー。

この混乱にはまってますとね。
「行為者なんていてないんやでー。」
って言う言葉を聞いても、
どうやれば、この行為者がいないと言う感覚を知ることができるんだろう??

って混乱しちゃうんですよねん。

大自然、そして宇宙のすべてに行為者はいません。
そして、僕らと大自然や宇宙との間に分離はありません。

なので、大自然の一部であり大自然そのものでもある僕らにも、
当然行為者はいないんです。

行為者がいないこの大自然の中、行為者という思考イメージが起こっているだけなんです。

思考は基本的につじつま合わせという働きをする大自然の一部の働きです。

だから、この思考が、行為者がいないと言うことを納得する必要は全くありません。

思考は行為者がいると言う大前提のイメージ設定のもとに働いていますので、
この思考が、行為者がいないということを掴み取ろうとすると、混乱が増すだけなんですよねん。

行為者がいないと色々と困ってしまうという思い。

例えば、
どうやったら幸せになれるのか?
何を準備しておけばいいのか?
何を頼りに人生を進めていけばいいのか?

といったような思いもまた、
行為者がいるという大前提があるから生じているイメージに過ぎないんです。

そしてこれらのイメージは、ぐるぐると働いている間しか存在してないんですよねー。

ぼーっと空を眺めてみるとき。
僕らは空を空とみなしている間、私と空という大前提のイメージを
ぐるぐると働かせ続けています。

ですが、ぼーっとしていると、この働きが弱まって、
まるで、自分が空に溶け込むような錯覚が起こります。

なんのことはない。
もうすでに自分と空は溶け込み合っていたんです。
そうじゃない!そうじゃない!と分離の思いを繰り返している間だけ、
そこに空想の分離を演出していただけだったんですよねん。

 

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