はい
おはようございます。
サウナ大好きタクさんです。
みなさん素敵なサウナライフをおすごしでしょうか?
僕は、サウナ15分、水風呂5分、休憩。
これを2〜3ターン繰り返すが気に入っています。
さてさて、
僕らはどうも、思考が本当の自分なんだと誤解することによって、
いろんな錯覚をしているようなところがあります。
この思考が自分であると思うからこそ、
思考をコントロールし、
いい考え方を手に入れようと、躍起になるわけです。
変な話、
この思考がうまくコントロールできない時、
自分がコントロールできていないという思いにかられ、
パニックになったりするんです。
また、
あれこれと心配事や不安なことばかりが考えをめぐる時、
自分のふりをする思考に僕らは絡め取られてしまうわけなんです。
思考が起こることになんら問題はないんですが、
その思考が本当の自分だと思っているので、
起こる思考に振り回されちゃうんですよね。
まあ、思考に振り回されるのは気分のいいものではありません。
それは、道具である昨日に自分が支配されてしまっていることと同様なので、
とても不自由な感覚も味わうんです。
だから、なんとか新たな思考体系を手に入れて、自分を変えたいと願うわけですが、
そうやってどんな思考体系を手に入れたのだとしても、
思考を自分だと思っているのなら、思考の奴隷からは解放されないんです。
また、「悟り」や「スピリチュアル」や「成功哲学」や「それ」や、
もうなんでもいいんですが、これらも思考体系として取り入れようとするのなら、
やはり思考の奴隷であることには変わりありません。
まず、おさえておくべきは、思考は自分ではないということなんです。
僕らは
「どうしたらいいんだろう?」
と思った時、ついつい新たな思考体系、つまり考え方を求めてしまいます。
これもまた、思考を変えることは自分を変えることだと考えているからなんですよねー。
「できることは、観ることだけです」
ってね。
僕もよく言ってるわけですが、
それは、思考って自分じゃないよー。
ということを確かめるということでもあるんです。
その一つの方法として、思考から離れてみる。
思考の働きをとめてみる。
というのがありますが、それは、
思考から離れても、その働きを止めても、
大丈夫じゃん!
つまり、思考は自分じゃないじゃん!
ということを、体感するためだったりもするわけですので、
ずっと思考を止めた状態を保っておくということとは全然違うんです。
あ、そうか!思考は自分じゃないんだ!
ってなことが腑に落ちてくると、
思考の話を大ごととして深刻に捉えなくてもよくなるだけなんです。
あ、こういう思考の働きが起きてるんだねー。
ってね。
知るんですが、面白いことに、じゃあ思考以外の真実の自分が見つかるとか、
そういうことでもなくて、自分という概念もまた思考の働きの中にしかないんじゃん!
ということも知るわけです。
全体の中に、自分をいう概念が登場し、そしてその自分を掴み取るために全体を思考の中で分離させていただけなんですよね。