Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今しかないしココしかないし、あるもないもない。

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おはようございます。
ぼーっとするのが得意なタクさんです。
学生の頃なんかはね〜。
もう時間を持て余しておりましたからねー。

僕はよく図書館にこもって大好きな歴史の本をよく読んでいましたが、
それでも余る時間は、よくぼーっとして過ごしておりました。

ぼーっとするのには二種類あるんですね。

ひとつは、何かしらの考え事をしている時。
そしてもう一つは、なーんにも考えてない時です。

はたから見ると、同じようにぼーっとしてるんですけどねー。

面白いことに、考え事をしている時は、そのイメージを現実として観ているんですよね。
そして、なーんにも考えてない時は、現実なんてないワケです。

これは、みーんなそうなんですよね。
いろんな現実が起こっているように見えて、それはイメージの中にしかないんですよね。

なので、大変なことが起こってると思ってる時も、
暇だなぁ〜。って思ってる時も、
はたから見ると一緒だったりするワケです。

だったら、この際、自分のことも、はたから見てやればいいんですよ。

何かが起こってようが、起こってなかろうが、一緒なんか!
なんてことがわかるかもしれませんもんね。

 

さてさて、
イメージといえば、
今以外のこともまた、イメージの中にしかないワケです。

例えば、過去や未来のことって、ここにはないですもんねぇ。
だとすれば、イメージで作り上げなきゃならないワケです。

しかも、未来っていうのは、もう完全に妄想でしかなく、
過去についても、都合の良い部分をピックアップしたものでしかありません。

つまりイメージって思いっきり主観だというわけなんです。

だからもう今しかないというワケです。
これはココしかないというのも同じです。
ココ以外はもうイメージの中にしかありませんからねー。

ちなみに、今というのは、過去や未来があって成り立つ言葉ですので、
実際には、今すらないということになります。

私がいるという思いもまた、私以外の人がいるという思いがあってこそ成り立ちますが、
この私も、私以外の人というのもまた、イメージの中にしかないんですよね。

ここはちょっとややこしいかもしれませんが、
何かしらの定義をしないと、あらゆるものは分離することができません。

これは、私に限らず、ありとあらゆるものについても、僕らは、
それをつかむ時に定義づけが必要になるんです。

そして、つかんだものというのは、それそのものではなく、その定義の方なんですよね。
そして、この定義もまた、イメージの中にしかないというワケです。

ええええー!
じゃあ、なーんにもつかめないジャーン!
と思っちゃうかもしれませんが、
掴むということが、架空の定義をつけてイメージないで妄想する。
ということですので、
そういう意味では、別につかめないというワケじゃありません。

ありのままの真実というのは、
掴み取るということ。
理解するということはすべて、架空のイメージづけであるということだ!
ということをちゃんと知っているということなんですよね。

そして、僕らが大きな誤解をしていることは、
掴み取らないと何も始まらない。
ということです。

でもここで始まらないのはストーリーであって、
真実が始まらないというワケじゃないんですよね。

イメージの中のストーリーをどう展開させようが、
ありのままの全てはすでにここで起こっているんです。

そんな中でストーリーを進めようがどうしようが、
なんの影響もありません。

さらに、このストーリーすら、僕らが始めているものではなく、
展開させているものでもないんです。

 

 

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