Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人生という「道」と「苦」について

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ほい♪
おはようございます。

最近、ちょっとだけ忙しくて、ややイラつき気味のタクさんです。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。

よくね。
人生って道に例えられたりするやないですか。

確かに、今までの人生を振り返ってみると、
それは1つの道のようにみえるかもしれません。

あの時の分かれ道。
違う道を選んでいたらどうなっていたのだろうか?

なーんてね。

 

この道ってのもね。
物語なんですよね。

物語の分岐点が分かれ道のように感じたりするわけです。

はたまた、
モデルストーリーなんていうのもあったりしてね。

何歳で結婚して、何年後かに子供を産んで、
家を買って、昇進して、
退職した後は夫婦で旅行でも行きつつ。。。

みたいなね。

そういうのがあると、
人生のレールのようなものがあって、
これを外れるとエライことになる!
みたいな想念もまた起こっちゃったりしてねー。

でもねー。
そんなもん無いんですよね。

人生の道も、レールもありゃしないんです。
だから、あのとき別の選択をした人生だってありませんし、
今までのストーリーだって、一つの解釈でしかないんです。

この解釈はその時のノリでいくらでも変わりますので、
正解の解釈すら存在しません。

後悔するときは、うまくいってないという想いがあるときですし、
うまくいっている時は、後悔は出てきませんのでねー。

もしそれがあるというのなら、出してみ?

人生の道ってどこにあるのん?
よく見てみ!そんなもんどこにもないで!

っていうことなんです。

道がどこにもないという事は、人生すらホントは無いんですよねん。

人生だと思っている物語も、今現在のひとつの解釈に過ぎないわけです。

解釈が起こっている時は、
この解釈は正しい解釈に見えているかもしれませんが、ここに正しいも誤りもありません。
単なる今のノリでこの解釈が生じているにすぎないんですよねー。

なので、あまり人生について悩む必要ってホントは無いんですよねん。

また、この先の人生についてだってね。
どうなるのかわかっていたい。
自分の望むモデルケースに沿うようにしておきたい。
っていくら思ったところで、そこには保証を求めようがないんです。

この保証に安心を求めていたとしたら、いつまでたっても安心は得られません。

その未来は今に持ってこれないですからね。
在るのは今だけです。
今だけしかないから、過去も未来もありません。
そうなると、「今も無いやないか―!」っていうことになりますが、そうなんです。
今もありません。

過去や未来はイメージの中にしかなく、そして、過去や未来が実存しないのであれば、
今もないんですね。

そんななか、単に解釈が、諸行無常の変化の中、起こっているだけなんです。
この解釈が人生のストーリーというやつなんです。

このストーリーもまた諸行無常の変化にさらされ変わっていきます。

一つの出来事は、時には悲惨な出来事として解釈されますが、同じ出来事はいつしか感謝の出来事として変わることもあるわけです。

どっちが正解でもないので、その解釈に右往左往することもないんですよねん。

これからどうなる?の保証は得られないのは、どうにかなる未来も過去も無いからです。

これからどうなる?を気にしちゃいますと、今あるこのノリに乗っかれませんし、
「どうなる?」の答えも見つかることが無いので、解決しない問題に縛られ続けることになっちゃいます。

この縛りが「苦」の正体なんです。
人生は「苦」である。の意味は、無いモノを有るとしてるから答えが見つからない。
という事なんです。

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