Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りや非二元のことがわからない。

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はーい。
おはようございます。

タクさんです。

僕らってねー。
どうしてもわかって納得してスッキリする。

これがわかったことである。
なんてクセをねー。
持っているわけですね。

だから、どうしても納得してわかっておきたいんです。

納得してわかることで、なんか身についたような。
持っておけるような。
なんかそんな気がするんですよね。

なので、いわゆる悟りだとか非二元といったような話についても、
持っておきたい。
と思っちゃうんですよね。

そして、それがどうにも、この話をずっと追いかけちゃう罠になっていたりもするのかもしれませんねー。

 

ま、悟りや非二元については、どこかに答えがあるというわけではありません。
なので、持っておこうとすると、いつまでたっても探求が終わらなくなっちゃうんです。

ありとあらゆるものは個として存在していません。
ぼくらが、個として認識しているものはすべて仮想のレッテルであり、思い込みのようなものなんです。

海辺の波は押せては返しと変化をしながらも、その波の本質は海そのものであるということなんです。
そんな波の一つ一つを個として認識しようとすると、その本質である海は途端にその認識によって覆い隠されるんですよねん。

中にはねー。
一瞥のような体験をして、全ては全体だ!
私なんていないどころか個別のものなんてどこにもないっ!
ってわかった方もおられると思います。
また、このブログで書かれているような話をきいたり、本で読んだりして、
意味としてはわかるって人もおられることでしょう。

でも、
さて、本当に自分はわかったのだろうか?と自らに問うて見ると、、、
「あれ??やっぱりわかったとは言えないや。。。」
ってなってる方も多いと思います。

あれー?
わかったはずなのに、完全に納得したはずなのに、何がわかったのだろう?

なんて方も多いと思うんです。

また、全ては完全で、私なんていなかったのに、私にはまだ苦がのこっている。
「おっかしいなぁー」
ってなってる方もおられるでしょうねー。

でもね。
安心してください。
この話については、誰もわかってる人なんていません。
みーんなわかってないんです。

これはねー、
「わからなくてもいい」というカラクリに対する見抜きの話なんです。

なので、世界中のどこを探しても、
悟った人もいなけりゃ、覚者もいません。

あえて言えば、悟ってない人なんていないってことなんですけどねー。

では、どうやって見抜くんだろう??
ってねぇ、思っちゃうわけなんですが、
これは、
何かを掴んでわかったことにしようとするクセが
思考の一部にある
ということが見抜かれるんです。

そしてね。
その思考を起こらないようにするということでもありません。

この思考も含めてありとあらゆる思考。
個別のレッテル。
これらはすべて、風景のようなものなんです。

窓の外に降る雨のようなものなんです。

僕らはすでにこれらの思考を、窓の外に降る雨と同じように、ただ観ているわけですが、
この観ていると言う経験は、五感フル活用で体感していますので、個人的なものだと錯覚しているんです。

そして、この個人的なものだという錯覚が、
自分が起こっていることをコントロールしているという錯覚を生み、

そして、今後もしっかりとコントロールしなきゃいけないという強迫観念もまた、
観ているわけなんです。

これらがすべて、風景だと見抜かれると、この「強迫観念」と「私という観念」が、風景に溶け込んでいくんです。

このクセによる錯覚は一発でスコーンと消えないことの方がほとんどですし、どこかにこのクセは残り続けるものですが、
このクセを完全に消し去りたいと言う欲求もまた、風景の一部ですので、
もうこれをどうにかする誰かはいないんですよね。

そうなってきますともう、
「ドラマを観てる間だけ、そのドラマを体験してるっていうことジャーン」
なんていうね。すんごく当たり前のことが明らかになるんです。

すでに明らかだったシンプルさが改めて明らかになるんですよねん♪

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