Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思いグセの話と、自分は思考であるという錯覚からの目覚め

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はじめに

はいよっ!
今日はちょっと寝坊してしまったので、
遅い更新になりました。
おはようございます。タクさんです。

さてさて、
「あ!やっぱりそうだー!」
ってね。
思うことってあるじゃないですか。

これってねー。
結局、そう思ってることをそうだー!って思ってるってことなんですよね。

つまりね。
僕らって、信じたいものを信じてるわけです。
そして、信じたいものが真実だと思ってるんですよね。

そして、他の人にも、自分が信じたいと思っているものを信じてほしいって思っちゃったりするんです。
逆に言うと自分が信じたい思ってることを否定されると、自分が否定される気になっちゃったりしてカチンと来ちゃったりね〜。

ま、この辺が、人が争っちゃう原因なのかもしれませんね。

それでね。
信じたいことって、自分にとって良いことのように思うじゃないですか。

でもねぇ。
実は、自分が信じたいことって、自分が嫌だと思ってることって場合が結構あるんです。

「えーー!そんなぁ〜!!」
って感じですよね。

そうなんです。
嫌なことでも、実は信じたいって思ってたりするんです。

 

嫌なことも信じたいこと?

え〜!なんで嫌なことも信じたいって思ってるのぉ〜。
って感じますよね。

僕らが信じたいと思ってることって、
良い悪いで判断したものじゃないんですよね。

なんていうか、それは思いグセから来ているものなんです。
そして、その思いグセっていうのは、習慣から来ているものでもあるんです。

その習慣ってのも、そうしたいと思って繰り返してるものじゃなくて、
知らず知らずのうちに、繰り返していて、それが習慣になってるんです。
その繰り返しは、誰かの影響を受けたものだったり、
ふとみたこと、聞いたことの影響だったりします。

無頓着になっている習慣・思いグセ

普段ね。
僕らって自分の習慣のことに無頓着になっておりましてね。
その習慣を自分がやっているということを忘れていたりするんです。

ほら。
普通に歩いているときだって、
右足出して、このタイミングで左足を出して〜。
ってやってないじゃないですか。

そんな感じで、思いグセというのもクセとしての習慣が、
勝手に観念を選び取ってストーリーを進めちゃうんですよね。

思考のストーリーって自分の思いグセで作られたストーリーなんですけど、
それは、自分の中で作られたものではなく、自分に向かってやってきたもの。
みたいなね。
そんな錯覚をしちゃうんですよね。

内観のコツ

内観って言葉があるじゃないですか。
自分の中を奥深く観るってやつですね。

その時、僕らがついやりがちなのが、自分の思いのストーリーの筋書きを追ってしまうってことなんですけどね。

それだと、いつまで経っても思考のストーリーの支配から逃れられません。

ストーリーの筋書きは一切無視して、
あ、このストーリーはこういう思いグセから発生したものなのね。
ってね。
自分の思いグセの方を観てあげると良いんです。

すると、そういう観念を採用してるんだからそういうストーリーが出てくるのは、
ま、必然だよね。
ってことになるんですよね。

ま、ここで、じゃあ観念を変えなければ!ってなっちゃうかもしれませんが、
それはそれで、別の「良い観念を選ばなければならない!」といったよう思いグセから発生したストーリーなので注意が必要なんですけどね。

ま、そうやってますと、単に思いって観念から作られたストーリーに過ぎないことが明らかになってくるんです。
また、自分の思いと思っていたものも実は逆で、思いの中に自分があるってことも明らかになったとき、初めて、自分は思考であるという錯覚から目覚めるんです。

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