おはよーございます。
タクさんです。
なんていうか、非二元とか「それ」という話は、
教義といった感じのものじゃないんですよねー。
思想体系でもなく、「論」でもありません。
非二元論とかにしちゃうと、それはもう小説と一緒になっちゃいますのでね。
「論」にするということは、ストーリーにするということです。
どうしてもぼくらって、何かしらをつかむ際には、
教義として体系立てて、理解して掴み取ろうとしちゃいがちですが、
その方法で、こういった話を掴み取ろうとすると、途端に迷いさまよっちゃうと思うんです。
この話は、掴み取った何かしらの設定の上にイメージを走らせて、
僕らは世界観を作ってるよねー。
そして、そのことに無意識になっちゃってるから、イメージによる世界観によって
窮屈な思いをしちゃってるよねー。
しかも掴み取ってるつもりになってるけど、実は観てるだけだよねー。
という話なんですよね。
え???観てるだけなん!!!
ってことをしっかりと再認識することで、なんていうかリラックスできるんです。
思考へのフォーカスはどこか身体に緊張感を走らせていたので力が入ってたんですよね〜。
その力が抜けると、リラックスがのこるんです。
ーー
でね。
僕らの思考は、設定なしには働きません。
・こういう事があって悲しいがどうしたらいいか?
・これも引き寄せの法則が働いているのか?
・心理的な病気のせいなのか?
・どうすれば目覚められるのか?
・「私」がいないとはどういうことなのか?
・どうやったら自信が持てる??
・ほんとに大丈夫なの?大丈夫だと思えません!
みたいに、いろいろ悩みを僕もお聞きしたりするんですが、
これらは全部ある種の設定をもとに起こってる思考なんですよね。
そして、どんな設定の思考も、その先に「それ」へとつながるというわけではありません。
つまりカルマと名付けている何かを手放しつづけることや、
長い瞑想ができるようになるといった先に何かがあるといった話でもないんです。
またこれは、
・肉はよく叩いてから焼いたほうがおいしいですよねぇ?
・昨日は阪神負けちゃいましたね。どうすれば勝てると思いますか?
・モンハンでは、どの武器を使いますか?私はガンランスなんですが、、、。
・iPhone派ですか?アンドロイドですか?
といった質問とその解決が「それ」へとつながるというわけではない。
というのと同じようなものなんです。
肉の焼き方のはなしと、
瞑想や心の持ち方や引き寄せの法則はいずれも、
思考のイメージにより作り上げられているストーリーですのでねー。
イメージをイメージとして観るのなら、何ら問題はありませんが、
イメージを現実として観ることで、そこで深刻さが生じます。
その深刻さすらも全然あって良いんですが、
その深刻さが起こってくる思考や感情を認められない時にそこに摩擦が起きるんです。
その摩擦を苦しさ、問題としてとらえているんですよねー。
ま、そういうわけですので、「それ」を一つの思想体系として掴み取ろうとすると、わけがわからないことになっちゃいます。
「それ」は思想体系じゃなくて、思想体系からの目覚めなんです。
思想体系であることをちゃんと知る。ありのままに見抜くということなんですよね。
また、思想体系が間違いで、「それ」が正しいということでもありません。
正しい、間違いというのも一つのアイデアのようなものでして、より正しい思想体系を掴むためのモノサシになっているだけですのでねー。