Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それって単なる虚無主義じゃん!03

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ホーン♪
おはようございます。タクさんです。

昨日の続きでございます。

「全てが幻想なら、
何を見ても幻想って事になっちゃうわけでしょ?
それならもう感動も消え失せてしまうってことじゃん。
私が私で無くなってしまうのなら、何のために生きりゃ良いんでしょう??
それって単なる虚無主義って事になっちゃうんじゃないのかなぁ。。。」

っていう問いについてですね。


幻想っていう言葉はねー。なんていうか、ちょっと誤解を生じさせちゃう言い方かもしれませんねー。

まあ、言葉で表現しちゃうと、どうしても半分のウソがついてきちゃいますので、仕方ないっちゃあ仕方がないんですけどね。

例えば、幻想っていうのもね。
幻想だと聞いちゃうと、その裏には、幻想じゃない真実がどこかにある。
なんて思っちゃうじゃないですか。
だったら、なんていうか、幻想はどこかにある真実よりは劣るもの。
なんてことになっちゃって、この劣るものが全てなんだとしたら、感動も失っちゃう。
なんてね。物語が発展しちゃうわけですが、
そういう事じゃないんですよね。

幻想だとしたら、この幻想じゃない真実がどこかにあるはず。
この真実を捉えることで、初めて、幻想だと分かるのかもしれない!
だったら、早くその真実をつかまえたいっ!

みたいな感じでね。

真実と幻想という二つが存在しているっていう前提でイメージが膨らんじゃうわけで雨が、そういうことではないんです。
そういう分離がないんだよん。っていう話ですのでねん。

僕らって、何かを理解しようとすると、その素材やパーツを集めちゃいますよね。
答えに対しては、その理由というパーツ。
結果に対しては、その原因というパーツ。

パーツを集めると答えや結果にたどり着けるはず!

ってねー。
考えちゃうんですよね。
それが、言葉と思考の仕組みですからね。

そして、その仕組みもまた、分離という概念上でしか機能しない仕組みなんですよねー。

しかも、そのベースになっている分離っていうのは、概念でしかないっていうね。
つまりはイメージなわけなんです。

 

この捕まえようとするクセを、クセと見抜くと、ああ、そういう仕組みが働いてるのね。
ありがとねん♪

ってなるわけなんです。


仕組みが働いてるのねー。
っていうのが
ああ、風が吹いてるのねー。

っていうのと同じような気楽さに感じられちゃうって感じです。

ここでいう気楽さっていうのが、執着のなさ、深刻さのなさっていうのに似てるのかもしれません。

ただ、ややこしいことに、そういう風に振る舞うようになるわけでもなく、
そういった人格になるというわけでもないんですけどね。

じゃあどういう事よ!

って思うじゃないですか。

だとしたら、
「そのどういう事よ!!」っていう思いの衝動が起こってますよねぇ?

その奥には、
キィーーーー!!!
掴み取りたーい!!!

といったような衝動がありますよねぇ?

それがね。
探究のエネルギーやというわけです。

でね。
そこにピョコンと乗っかりますとね。
探究の旅が始まるわけです。
イメージの中でね。

乗っかってる間は、そのエネルギーに沿わないとダメだ!
ってなります。

それは、ゲームをするならそのゲームのルールに沿わなきゃダメだ!っていうのと一緒なんですね。

エネルギーに沿わないのなら、乗っかっても居られなくなるわけです。

でね。
乗っかってるからには、つかみ取らなきゃいけないし、わかってなきゃいけないわけです。
そうであるべきだと思うわけです。

そして、わかるにも掴むにも、主体が必要になります。
掴むこと、わかることの当事者が必要になりますのでね。

それが私だというわけです。

ただ、実際にワタシはいませんので、依り代となる何かが必要になります。
それが身体であったり、心であったり、信念であったり、思考であったり、
ストーリーによる人生だったりするわけなんです。

この依り代が一つだけだったとしたら、「私がいない」という事がすぐに露呈されちゃいますので、いろんな依り代が必要になるんですよね。

コントロールしなきゃいけないのも私になりますのでね。
コントロールされるものが身体の場合は、思考が私となって、その思考でもって身体を動かしている!
っていう設定になるわけですね。

さてさて、
というわけでして、
わかりたい!つかみたい!という衝動にね。
乗っかってる間だけ、何かを掴もうとしますし、
掴まなきゃ始まらない!!って感じるわけです。

どうにかしなきゃいけない!
どこに向かえばいいのか??

っていう思いも、この衝動に乗っかってるからなんですよね。

なのでね。

進む事も出来ず、
どうする事も出来ず、、、。

ってなってるのだとしたら、
行先探しに躍起になる前に、
「どこにも行かなくてもええねんで。」
っていう可能性について、見てみたら良いんです。

どこかに向かわなければならない!

があるのだとしたら、そういう衝動に乗っかってるというわけなんです。

だったら降りればいいわけですが、乗っかってるということに気づいてないので、降りようがないんですよね。

なのでね。
ちょっとの間だけで良いから、
わからないままでいてみる。
わからんでもええねんで!という可能性を探ってみるんです。

すると、
つかみたいぃー!!!わかりたいぃー!!
っていう衝動があることに気づくんですよね。

で、この衝動ちゃんを愛でてあげたら良いんです。
愛でてあげることで主導権を衝動に渡さなくてもよくなるんです。

で、乗っからないでいてみると、衝動も起こっては消えていくんです。

「私」という概念も、「私」とするなにかしらの依り代が必要なわけですので、
それも掴もうとする衝動にも気づいてくるかもしれません。

それもそのまんま二しておいてあげますと、
ああ、これもまた、単なる衝動なんだ。。。
って気づかれます。

面白いことに、気づくのに主体者は必要なかったんだ。最初っから知ってたんだ!
って感じなんです。

私に依り代は必要ないという事が明らかになると、それと同時に、私はあらゆるものから解放されるんです。

最初は私が消える怖さを感じるかもしれません。

でも、消える何かがあるわけじゃないんですよね。

そして、
拠り所にしてた身体や思考。
そして、作り上げられた「ワタシらしさ」。
そんな拠り所に特に必要性がないとなった時、

その中に閉じ込めていた私が解放されるんです。

私が、ワタシという観念からも解放される時、
何も付け加えないそのまんまに目覚めるわけです。

ま、そのまんまですのでね。目覚める目覚めない以前って感じなんですけどね。
そして、「それ」しかないんや!
しかも「それ」は特別でも何でもなく当たり前であり、
分離という観念から始まるありとあらゆることが特別さだったんだ!
と知るわけです。

誰でもない何かがね。
知るというわけです。

知るのに誰かが必要だというルールも適用されないんですよね。

・・・

あ、、、。

問いの答えを忘れてましたが。

まあまあ、そういうわけでしてね。
何かの主義を掴む必要はないわけですので、
幻想だ!ということをつかみ取らなくてもいいのと同時に、
虚無主義とかいう主義をつかみ取らなくてもいいわけです。

掴み取るクセがあるかぎり、その衝動に乗っかってる間だけ、
何かしらの主義を作り上げなきゃならないわけですので、

乗っかってる間だけ
それが、あっちに行ったりこっちに行ったりとぐるぐるしちゃうというわけですね。

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