さてさて、昨日の続きとして、
思考と現実について今日も書いて見たいと思います。
ちなみにね。
僕らって思考と現実って見分けがつかないんですよねー。
なのでね。
夢を見ている間は、その夢自体を現実だとしているわけです。
もっと言うとね。
現実ってなあに?って話なんですが、
僕らが現実だとしているものって、ぜーんぶ思考なんですよね。
なので、現実を変えようとするなら、単に思考を変えたら良いだけってことにもなるんです。
ただ、これがなかなか難しくて、
よっしゃ、思考を変えよう!考え方を変えようとしたところでね。
もうこの時点で、思考はかなり進行しちゃってるんですよね。
つまり、もうかなり出来上がってしまっているんです。
なので、その時点で変えられたとしても、またすぐに元に戻ってしまう。
なんてことになりがちなんですよねー。
例えばなんですが、怒らないようにしよう!
としてね。
いわゆるアンガーマネイメントなんかをやろうとしても、
注意深く思考を観察できてる間だけはうまくいくかもしれませんが、
気をぬくとやっぱり怒ってしまいますし、いっつも気づいた時点では同じことで怒ってしまってるやーん!
ってなったりして、結局、うまくいったりいかなかったりの繰り返し。
なーんてことにもなったりするんです。
ま、別にそれはそれで良いんですけど、
なぜうまくいかんのだーと言いますと、
怒ったことについて、もう五感を通してそれを受け取った時点で、もうかなり自分なりの思考の色がついちゃってるんですよねー。
例えばですが、梅干しを見たなら、
もし、梅干しなんて知らないのであれば、記憶がありませんので、
単なる赤くて萎れた実がある。
くらいにしか思わないのですが、
梅干しを食べた記憶がある場合は、
「あ!これ食べたことがある!めっちゃ酸っぱいやつやん!」ってなもんで、
その記憶を参照しちゃいますし、その時点で赤さよりは味覚のイメージの方を重点的に感じたりします。
すると、口の中に唾液が増えてきて、酸っぱさのイメージを体でもう感じちゃってるわけです。
そうなった時点で、さらに梅干しについて、食べたろかなー?どーしようかなー?
なんて思考が出てくる。
って感じでしょうか?
梅干しくらいでは悩むことはありませんが、過去の嫌な記憶やそこからくる自分のセルフイメージなんかも、思考がストーリーを展開するずっと以前からその材料がもうほぼ出来上がってしまってるんですよね。
そして、材料が出来上がった時点でそのあと展開されるストーリーをなんとかこねくり返してみたとしても、その時はうまくいった気がしてもまた同じストーリーに悩まされたりすることがあるわけです。
思考は五感を通して認識した時点で、かなり材料が出来上がり、そこに感情や記憶が加わることで、もう大体のストーリーの土台が出来上がってるわけですねー。
で、ストーリーが展開されてある程度いったところで、やっと、
「は!わたしまたこんなこと考えてる!」
って気づくんです。
で、ここで考え方を変えても、また同じことを繰り返しちゃう。
という寸法なんです。
もうほぼ積み上がって出来上がってる積み木のオブジェの先っぽだけを変えてるだけ。って感じでしょうかねぇ。
スピ系なんかでよくある気づきのワークや
引き寄せのワークを一所懸命やっても、
なかなかうまく行かないわー。
って思われてる方は、もしかしたら、そういった原因があるかもしれません。
もちろん、スピ系だけじゃなく心理学的なアプローチも色々ありまして、
五感で受け取るイメージそのものから変えちゃおうぜ!
っていうワークもあるっちゃあります。
ただし、必ずしもうまくいくわけでもなく、結構根気が必要だったりもするんですよねー。
メソッドやアプローチは
そうやって作り出しちゃうストーリー、プログラムをなんとか変えましょう!
っていうアプローチであって、
もちろん、それはそれでとっても役立つアプローチではあるんですけど、
非二元で言われていることは、変えようが変えまいがどっちでもええやーん♪って感じだったりします。
五感を通して何かを感じ取り、それを判断し思考する。
といった流れ自体は、もう人の本能ですので、変えようがありません。
雨が降る空に向かって、なぜ雨が降るのか!もう雨をやめてくれ!と願っても通らないのと同様に、その本能はもうそれで自然なんですよね。
ただ、そっかー。
それでもう自然なんだー!
って気づいちゃいますと、その思考が作る現実に深刻さは思ってたほど必要ない。
なんてことにも気づいちゃうんです。
だったら、良いじゃん!たんに面白くやってれば。
ってねー。
そして、許せた時に同時に気づくのが、許そうが許せまいが、最初っから許されとるやん。
っていう気づきなんです。
まあそう言うわけで、
時に、心理カウンセリング的な方法論やスピ系や癒しの方法論と非二元がごっちゃ混ぜに感じたりすることもあったりするわけですが、
非二元については自分が何者かになるという話ではないってことなんです。
ただ、何者かにならなくても良いんだよーっていうのが、どうにも感じ取りにくい場合は、準備運動として、いろんなアプローチを試してみるのはとっても良いと思うんですよね。
瞑想だって、その準備運動の一種です。
そして、ある程度整ったのなら、改めて、単に見てみると良いと思います。
実際できることって、みることくらいしかありませんからねぇ。
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