ほい。
おはようございます。
タクさんです。
さて、
「ストーリーを見ている間だけ、そのストーリーを体験している」
みたいなことをねー。
よく書いてるわけなんですけど、
まー、これ、そりゃそーだ!って話ですよねー。
うん。言うことはわかったけど、
「じゃあどうやってこのストーリーから抜け出したらいいのん?」
ってねぇ。
思ったりする方も多いかと思います。
と、いうわけで、今日はその辺について書いて見たいと思いますです。
さて、
「どうしたら抜け出せるのだろう??」
ってねー。
こう考えちゃうことで、もうすでにもうストーリーの罠にハマっちゃってるんですよね。
なんていうか、抜け出そうって思っているということは、
このストーリーは現実だと思い込んでいるということになります。
つまり、
ストーリーから抜け出したいっ!という思いは、
ストーリーを現実として捉えているからだったりするんですよね。
なので、まずはね。
ちょっと落ち着いて見ることをオススメします。
そして、抜け出さなくてもいいかも。ということを観てみるんです。
抜け出さなくてもいい???
んなわけいくかーいっ!
ってね、
騒ぎ出す想念が起こるのだとしたら、
「うわぁ、、、この想念が、ストーリーを現実化してたのね。」
ということが観て取れると思います。
この、「ストーリーから抜け出さなければならない。」という思いは、
ストーリー自体にあるというよりは、
ストーリーを現実視している部分にあるんですよねん。
ストーリーってストーリーだったんだ!と知ると、
抜け出す必要性すらなくなります。
だから、ちょっと落ち着いて、
お茶でも飲んで、ふーって息を吐いて、
へぇー。わしは今こう言う心境を観てるんだー。
ってね。人ごとのように観てやればいいんです。
何を観てても、そこに害はありません。
ゾンビ映画を観てようが、恋愛映画を観てようが、
どちらかの映画に、何かしらの害があると言うわけではないんです。
映画の中に毒が入っているわけでもありません。
心象風景が、体のどこかにちょっとした緊張感を与え、
そして、その不快感がストーリーを探り出し、
本来はありえない、未来永劫続くような絶望感を巧妙に植え付けていく。
そんな心が鏡となり、目の前に広がる世界の意味付けもまた、
この心境に合わせた意味付けがなされていく。
そんな心境をね、ただじっと観てみるんです。
ここで観て取れる感覚やイメージ、
そして感触は、
全てが風景と同様のものなんです。
お茶でも飲んで、フッと息を吐いてリラックスしてみて、
嘘でもいいから、風景として観てみる。
風景と感じられない!と思う思考の働きが、
彼方から湧いてきて、どんな働きをするのかについても、
じっと観てみるんです。
すると、
風景を実体として、ストーリーを現実として
観ることで、見逃していたものがリラックスとともに現れ出てくるかもしれません。
そして、ストーリーや起ってくる思考は、
消し去らなければならないものでもなければ、
抜け出さなきゃならないものでもないことも、
同時に明らかになっていってくれるんです。
するとね。
なんとも皮肉なことですが、結果的に、
いつでもストーリーから抜け出せることを知るんですよねん。
もちろん、抜け出したりする行為者はいないわけですが、
行為者がいないということが、抜け出るカギになってくれるんです。
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