ほい!
おはようございます。
最近、老眼がきついタクさんです。
昔から今になっても視力は2.0やったんですけどねー。
そのせいで、自分は目がすごく良いんだ!
って思い込んでいたんですけど、ホント最近、近いところが見えません。
で、メガネ屋さんに行ったんですけど、
あんた、老眼もそうやけど遠視やで!
って言われました。
最近は遠近両用の遠視と老眼の度が入ったメガネが欠かせなくなっております。
自分は目が良いと思っていたので、気づかなかったんですけど、
メガネをかけ始めて初めて気づいたのは、
子供の頃から近くはよく見えてなかったってことです。
近いところは二重に見えるっていうのって当たり前のことやなかったんですねー。
今日はメガネをわすれたので、文字を打つのが少々大変です。
さて、
「あなたの体や心は全てカルマによって起きている。
このカルマを解放することによって、体や心からの解脱がある。」
今日は、
この言葉について書いてみよっかなーと思います。
カルマって、なんか業って書いたりして、
そこから前世やら過去生の因果やったりとか、
色々と意味合いが発展しておりまして、
過去生や前世とか言われたら、もう手も足も出ませんやん!
あんた、前世の行いが悪かったから、今こんな目にあってますねんで。
とか言われたりしたらもう救いようがありませんやん!
ってね〜。
なりますので、
そんなん、怖いですやん!
ってことで、ちょっと怖い感じがする方もおられるのかも知れませんけどね。
僕ねー。
こういう罪悪感を掻き立てるような考えって嫌いなんですよね。
そもそも、カルマっちゅうのは、単なる原因と結果という法則性のようなものを意味しておるんやと思うんですよ。
でね。
カルマの法則っていうのは、実際は無いものなんですけど、
その法則性にハマりこんでる間はその法則の中に生きることになるんですよね。
鬼ごっこしている間は、逃げ続けなきゃイカン!っていうのと同様にね。
でもって、
この法則性にハマることが輪廻であって、この法則性の無さに気づくことが解脱やというわけです。
輪廻からの解脱って聞くと、なんか物凄く特別さを感じたりするかも知れませんが、
なんも特別なことやありゃしません。
例えばね。
窓の外に目をやると、街路樹がゆらゆらと揺れていたとしますよね。
すると、普通は、
おー!今日は風が強いな!
って思ったりするかもしれません。
風が吹いたから、木が揺れておるわけですから当然ですよね。
※ちなみに僕はたまに、今日の木はノリノリで踊っとるなぁ。。。って思いつつニヤリとしたりするわけですが、、、。
でもね。
実際は木が揺れている。以上。
っていうことなんです。
ホントは木すらなく、木が風にあおられてるっていうのは、木と風が分離していると思うから出てくる考えっていうかね。
めっちゃ言葉で書くのはややこしいですが、
単なる風景に対して、木と風という別々のものがあるという観念があって、
その観念を元に、
その風が木に対して吹き付けるもんやから、木が揺れておる。
といった考えが浮かんできておるわけです。
木だったら別に気にならないもんですけど、自分に降りかかるいろんな出来事だと、
エライコッチャ!と対処法を考えたりしなきゃいけなくなるわけですね。
こういった観念から起こる物語には、根底にある種の法則性があるわけです。
これが、「ああなるから、こうなる。」という原因と結果の法則です。
こうやって次々と紡ぎ出される物語はね。別に良いんですよ。
普通に対処できるもんは対処すりゃ良いだけですのでね。
ただ、この物語に対して、必要以上に執着することで、
物語のループにはまってしまうわけです。
この執着っていうのは、「わかろうとする」ということなんですね。
この「わかろうとする」がある限り、ずっと物語の中の原因と結果探しにループしてしまうんです。
わかったり、対処することは良いんです。
ただ、わかろうと無理せんでもええやん!なんでも掴んどかんでもええやん!
掴もうとしても良いけど、掴まなきゃダメってことでも無いやん!
っていうね。
その気づきを持ってみたらええんちゃいますかー?
っていうのがね、原因と結果の物語から自由になる。
つまりは、カルマ=輪廻からの解脱やというわけです。
カルマの解放っていうのは、一個一個の原因を探して潰していくことやなくて、
物語の中だけにはまり込む事からの解放なわけです。
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