ほい。
おはようございます。
タクさんです。
かー。
今日は肩が凝っております!
ずっと同じ姿勢で作業をしておりましたのでねぇ。
さて、
ここに何かしらの定義があるとします。
定義とは、概念内容のことです。
概念とは意味付けのことですので、
意味付けられたルール。
これが定義です。
この定義がねー。
真実となってしまうとどうなるか?
というと、
僕らはこの定義の奴隷になってしまうんです。
というわけで、真実のふりをした定義について、
今日は書いて見たいと思います。
僕らは、自分というものよりも、真実の方が上だと思っています。
だから、なるだけ真実を取り入れてもっておこうとするわけです。
それは自分という存在の外に世界があり、
世界の中のひとかけらが自分だと思っているからです。
そして、この世界には、
真実と嘘が存在し、
嘘は真実には太刀打ちできない。
とも考えているんです。
だから、嘘にまみれると、僕らは真実に負けてしまいますし、
真実を知っていると嘘に騙されることもないと思っているので、
なるだけ、自分は真実掴んでいたいんですよねー。
なのでもう、真実様は自分よりもとても偉い概念となってしまうわけです。
でねー。
困ったことに僕らは、この真実というものを定義づけで作っちゃうんですよねー。
定義がないと僕らは何も掴めないので、
何でもかんでも定義づけをして掴もうとしちゃうんです。
そしていろんな真実もまた定義づけをして掴んじゃうわけなんです。
でも定義づけされたものというのは、全て概念ですのでねー。
真実ではないんです。
真実の一部を定義という枠にはめて分離させてしまっているんですよねー。
まあ、そういう事情でですねぇ。
あらゆる定義づけは自分を縛っちゃいますよー。
ということになるわけなんです。
そして、自分を縛ること。これが苦の源泉となっておるわけでして、
この自分を縛る定義というのは、実体はないんですよー。
定義は真実ではないんですよー。
ということになるんですよねー。
「じゃあ、真実はなんですのん???」
ってことになるんですけどね。
それは、
定義づけで縛らない、目の前の全て。
ということになるわけです。
定義づけで縛らないというのは、「なんでもないもの」ということになり、
それでいて、全てであるということになるんですよね。
真実なのか?嘘なのか?
あるのか?ないのか?
どれが正しくて、どれが誤りなのか?
これらは全て定義づけの中にしかない概念なんです。
定義として限定するから、正しさや誤りや、ホントや嘘が生じるんです。