Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それって受け売りなんじゃなーい。

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グッと腕を伸ばして背中を伸ばす時に感じる感覚。
この感覚は実際に感じてますよね。
クワーってきますもんねー。
この感覚こそ、ダイレクトな感覚です。

もっと正確に言うと、
感覚ですらないですよね。
感覚だ!って思う以前にもうダイレクトに、
クワーってきてますやんねぇ。

くわーっ!がダイレクトにありますよね。
このダイレクトさこそが「ありのまま」の「それそのもの」なんですよね。

でも
それはノビという行為であって、背中を伸ばすことによって血流の流れが促されて、筋肉も同時に伸びるからこう言った感覚を感じるんだよー。

ってなっちゃいますと、
それってもう、受け売りになっちゃうんですよね。

ダイレクトじゃ無くて、単なる受け売りによるストーリーだと言うわけです。

だって、生まれた時から背中とか筋肉とか血流なんて言葉を知ってたわけじゃないですからね。
そして、この感覚に対する説明だって、正しい間違いは置いておいて、
受け売りであることは否定できないですよね。

まあ、あってるからええやん!
って思われるかもしれませんけど、、、。

 

正しい間違いは、実はここではあまり問題じゃないんですよね。
そんなに重要じゃないんです。

正しいや間違いということに対して、
こだわりを持っちゃうことで、
正しい何かを探す旅を促しておるんやないのん?
っていう話なんです。

自分が集めてきた考えや理論ってね。
やっぱり正しいものであって欲しいもんですよねぇ。

そういうのを否定されると、イラっとくることもあると思います。

そうやって集めたものが、いつしか「自分の信念」となり、
自分と同化しちゃうことによって、
本来は自分とは全然関係なかったひとつの設定のようなものなのに、
それを壊されると自分が壊されてる。
みたいな気分になっちゃったりするわけですよねん。

自分を守るために、自分を強化しよう!
自分をより良くしよう!

って集めてきた自分のヨロイ。

それが増えれば増えるほど、

お!これは面白そうやから、やってみよかな。
ってなった時に、

うーん。確かに面白そうだけど、
これは自分の信念にもとるから、やめておこう。
ってなったり、

自分の信念とは相反する意見に対して、
なぜか攻撃的になったりして。。。

あれれれー?

なんだか窮屈だぞ????
ってなってきたりしてね。

自分をより良くしようと集めてきたモノが多ければ多いほど、
ヨロイを強化すればするほど、
身動きが取りづらくなり、

傷つきやすくなり、
守らなきゃいけないことも多くなり、、、、。

そして、自分の周りのヨロイが分厚くなればなるほど、

分厚くなったヨロイの方を自分と見なしていますので、
元々の自分を見失っちゃたりしてねー。

ヨロイの方の自分はどんどん肥大いったりするんですよねん。

大きければ大きいほど良いんだろう?
てなもんで、
挙げ句の果てには、その大きさを競い合うようになっちゃったりしてね。

あの人はあんなに沢山持ってる。
自分ももっと沢山欲しい。

といったような、無くても良い欲求で、
持ってない自分を鞭打つような感情さえも持ち込んじゃったりするんですよねん。

そやって、沢山集めてきた信念や、
「私」を形作ってきたありとあらゆる材料ってねー、

実はぜーんぶ「受け売り」に過ぎないものだとしたら??
それって、「私」ですら無いんだとしたら??

そんな思いに駆られた時、本来の自分探しが始まるわけですが、
今までのクセで、その自分を探すのにも、外から材料を集めてくればいいのかな?
ってな方向に進んじゃったりするわけなんですよねー。

誰かの言葉の中や、
ブッダの教えの中。
経典の中に、それ(自分)があるわけありませんよね。

それらの教えは、自分の周りに、せっせとこさえてきた「受け売り」を見抜くための「あんちょこ」のようなものなんです。

「あんちょこ」をありがたがるよりは、それを参照して、どんな「受け売り」を身につけてるんだろう?
ってのをさっさと見てみれば良いんですよねん。

ただ、
そういった受け売りってぜーんぶイメージのようなものですので、
それを滅却しようとか、抑えこもうと戦ってみたところで、
空気にパンチしてるようなもので、
それもまた疲れてきますので、、、。

ただ単に見るだけで良いんです。

徹底的に見ていくと、
もともと備わっていた防衛本能がいろんな経験を集めて、
それを役立てようとするんやねー。

っていう仕組みが明らかになってきてくれます。

その防衛本能に「自分」をくっつけた時、そこに深刻さが生じるわけで、
そうやってくっつける「自分」というのもまた一つのイメージに過ぎないことも見て取れるんですね。

だから、イメージとしての「自分」って無いものなんですけど、
常に感じている自身の存在はあるわけです。

いつしかその存在と「自分」という観念、
そして集めてきた様々な観念。
これらを一緒くたにしとったから、混乱しとったんやねー。
てなことも、見て取れるわけなんです。

そこで、私は私で、あなたはあなた。といった原初の「受け売り」が発見されるんですよねー。
それが、「分離の観念」やったんです。

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