Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

正解と間違いがあるわけじゃ無く、嘘とホントがあるわけじゃ無く、有ると無いがあるわけじゃ無いんです。

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探求っていうのは、
正解さがし。
っていう表現も出来るかもしれませんねー。

どこかに正しい答えがあるはず。
っていう思いがあるからこそ、それを探し求めると言うわけですからねぇ。

どこかに正しいが有ると言うのなら、
ここにはまだ正しいと言えないと言うことにもなりますのでね。

それが探求を促すのと同時に、
それが、いま、ここはまだ完全に正しいとは言えない。
完璧とは言えない。

という思いを生み出すってなことにもなるんですよねー。

で、そやって探し求めることが、「ありのまま」から目をそらすことになります。

そもそも、正しいと間違い。
ウソとホント。
自我と真我。
私が残っていると私はいない。

みたいなねー。
そういう区別ってないんですよね。

その区別が分離感となっているわけなんです。

そしてどうしても分離のくせがあると、
右か左かー!
ってな考え方をしちゃいがちなんですけどね。

もうその時点で、分離っていう分離教を採用してしまってますやん!
っていう話なんですよねー。

 

「私がいない」っていう言葉もねー。
その辺の誤解を生じやすいことになってるかもしれません。

ここで言われている私っていうのは、最初からなかった「私というイメージ」のことを指しているわけでしてね。

ありとあらゆる起こってること。「それそのもの」がないわけでも無く、
自身の存在がないというわけでも無く、

それでいて、あるとか無いというのも単なる判断に過ぎない。
みたいなことなんですよね。

なので、あまり「私がいない」という言葉に振り回されないほうがいいかもしれません。
そもそも「私がいない」は「私」がいなきゃ成り立たない言葉でもありますので、振り回されれば振り回されるほど、私という観念にこだわっちゃったりしますのでね。

どちらかというと、あるとか無いにこだわっちゃうから、どっちかが正解でどっちかがウソなのかも??
ってやってるということを、シラーっと見てみたらいいと思うんです。

そのあるとか無いとかいう分離感が、探求のエネルギーを生み出しとると言うわけですのでねん。

どっちにも分けなくていいんやでーってね。
どちらも選択せずにいてみますとね。

クゥー。掴まないとやってられなーい。
みたいな衝動を感じれられると思うんです。

まるで、自転車を両手離しして運転してるようなね。

心もとなさ。
怖い感じを感じるかもしれません。

その掴みたーい!っていう思いが、探求のエネルギーなんですよねー。

でも、実際に何かを掴んだことって今まで無かったんですね。

そう見なしていただけでね。

そもそも、掴める何かがあるわけでもありませんのでね。

そして、その掴みたいと言う衝動があるからまだダメとかそう言うわけでもないんです。

そう言う衝動が起きてるなら、単に起きてるだけですやん♪
ってだけの話なんですよねー。

べつにヒューって風が吹いてても大騒ぎしませんよねぇ。

あー。まだ私には風が吹いているー。
まだまだ理解が足りないんやー!

ってならないやないですか。

単に風が吹いてるだけーってことですのでね。

それと一緒なんですよ。

単に起こってるだけなんですよね。
なんでもない事がね。

なんでもないことが起こっていると言うことは起こってないとも言えるわけでして、
起こっていて、起ってない。

それらが同時に存在してる。

って言うことなんですよね。

言葉にするとややこしく感じますが、
どっちでもあり、どっちでもない。
そして、どっちでもいい!ってことなんですね。

それが分離のなさなんです。

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