そっかー。
自分がいるというこの自分っちゅうのが観念なんかー。
ほほっ!
自分が観念やったら、自分以外の全部もまた観念なんか?
あ、そうか、自分と自分以外なんて分けてみても、分けなくても、
最初っからぜーんぶがあったんだー!
そんな中で分けてる間だけ、物語が展開しとったわけね。
そりゃー、分けない事には物語って出てこないもんねー。
にょほほほほー♪
・・・
・・
・
ひぃぃぃー!
でもやっぱり、
安心したいし、
大丈夫やで!っていう確かな証拠がほしいし、
完全無欠に守られてるで!っていうのを、なんていうか、こう、わっかりやすい形で見せてほしいーーー!!!
やっぱり安心できんっ!!!
ってねー。
なったりすると思うんですよ。
それが自然の姿やというもんですからねん。
愛でてあげても、感謝しても、
やっぱり次々と出てくるんですけどー。
キリがないんですけどー。
ってねー。
今日はその辺の話しについて書いてみたいと思います。
うん。
そういうのは起こるときは起こりますし、どんなことでも起こるんですよねー。
つまり、
自分が観念なんやー!ってね。
わかったところで、何の役にも立たないわけです。
でね。
役に立つ必要すら、ホントは無いんですよねん。
「役に立たないのやったらアカンやないか!」
って声が自分から聞こえてくるかもしれませんね。
この声の主は、ずっとずーっと深ーく掘っていくと、
結局のところ恐怖感からでてきておるんです。
そして、この恐怖は、ちゃんとあって良いです。
よく書いてる「愛でてあげる」っていうのはねー。
どうしても、あって良いというのが、よくわからん。
っていう場合にね。
愛でてあげると、ちょっとしたきっかけになるんですよね。
ホントに愛でてあげられたとしたなら、その恐怖はあって良いということになってくるんです。
ただ、
あって良いけど、べつに恐怖の声に従わなきゃならないというわけじゃないんですよね。
そして、恐怖を打ち消さなきゃならないというわけでもないんです。
「うん。ありがとねー。」って声をかけてあげたらええねんで。
みたいなことも良く書いてますけどね。
それだって、打ち消すためにそうするというよりは、そこに在ってええねんで。
ってなる入口にね。
なんていうか立つためには、どうにかしなければ!
っていう思いを置いておかなきゃなりませんのでねー。
そのためのちょっとしたコツのようなもんなんです。
恐怖ちゃんもね。
あって良いよー!ってことにしてあげますとね。
「ワシの声に従えーーー!!!」
ってゆーてきません。
あら、あっていいのねん。ってなると、もうそれ以上何もゆ~て来ないんですよね。
恐怖ちゃん以外にも、いろんな声があーだこーだとゆ~てくるもんなんですけど、
結構恐怖ちゃんの声って大きいんですよね。
で、その声を受け取ると、やっぱり受け取ってしもてますのでね。
受け取ってるからには、その受け取った世界のイメージが展開するわけなんです。
そりゃそーですよねー。そう受け取ってるんですからねん。
で、真剣に受け取っていれば、やっぱりその度合いに従って、深刻さとして展開されたりするわけなんです。
こういった声って、ホント、イノチの実体があるものというよりは、単なるイメージなんですよ。
実体のダイレクトさ。
それは、
パンッって手を叩いた時に感じる、ジーンとくる感覚。
胸に手を当てたときに感じる暖かさ。
聞こえる音。
感じる感覚。
ここにイノチのダイレクトさがあるんです。
そのダイレクトさが、なんていうか喜びなんですよね。
ノリノリといいますか。
ありとあらゆる声が止んだときに残るのがこのダイレクトさです。
そして、そこで知るのが、
「声に従わなくてもやってけてるやん!」
「あ、、、この声って置いておいても大丈夫やったんやー!」
という事なんです。
感覚としては、溺れる!って思ってジタバタしてたけど、めっちゃ水位低いやん。
普通に立てるやん!
って感じです。
そして、これは声に従わなくても良いのと同時に、
従っても全然問題ないやーん。という事でもあるんですよね。
おおお。
どっちでもよかったんやん!ってなるわけです。
そして、今までだって、どっちでも良いこととして、従ったり従わなかったりしてきてたやん!
じゃあ、これで良かったんやん。
って気づいたりもするわけなんですよねー。
そうなりますと、改めて、あらゆる声の健気さ、愛らしさも見えてきてくれるんです。
でね。
ホントに「ありがとねー!」って言えるんですよねん。
▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします。
質問などがありましたら、facebookのメッセージからどうぞです〜。