Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

おままごとも自然現象の一部?

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例えば、
A君とB君が遊んでたとしましょう。

A君が
「よし!このドングリをたくさん持ってたほうがエライっちゅうことにしようぜー」
「で、このドングリがないと死んでしまうねん!」
と言ったとしましょう。

それに対してB君
「へ???ドングリ???なんで???」
「わし、ドングリが無くても死なへんで??」

A君
「わかってるがな!遊びやがな!ほなら始めるで!よーいスタート!」

B君
「ハッ!!!!手元にドングリが一個しかない!!!!ヤバイ!死んでまう!!!」

A君
「ふっふっふ、わしゃこんなにドングリをもっている!良かったら一個分けてしんぜようかな」

B君
「お、、、お願いします!私は家族を抱えてて、このドングリが無けりゃ一家路頭に迷うのです」

A君
「よかろう!では、ちょいと用を頼まれてくれんか。そうしたらドングリを捧げようぞよ!」

B君
「お、、、オッケー牧場!!!!」

 

はい!
はい!
はいっはいっはいっ!

おはようございます!
タクさんです。

話変わりますけど、電話出るとき、「もしもし」って言うじゃないですか。

あれ、ちょっとウケません?

「もしもし」てwww。

普段絶対言わへんやん!って。

誰が流行らせたんでしょうねぇ?

完全に電話用語って感じですよねぇ。

なんかそんなことを思ってしまって以来、
電話の相手が「もしもし」っていうと、

あ、、、「もしもし」ゆーてるー。
ってちょっとニヤけてしまうんですよね。
僕も「もしもし」ゆーてるわけですけど、、、。

とまあ、脈絡のない話をしちゃいましたが、
えーっと、冒頭のA君とB君の件ですね。

まあ、これもおままごとですよねー。
おままごとをするには、お互いにこういうことにしとこうねー。
っていうルールがあってはじめて成り立つわけです。

冒頭の話ではドングリが無いとエライことになるで!みたいな前提ルールがあるというわけです。

おままごととその物語。
それには、前提ルールが必要やというわけです。
そして、そのルールを共通認識として持っておくということが必要となるわけです。

また逆にいうと、前提のルールがあるものは全部おままごとの物語やということになります。

でね。
僕らって物事を習慣化させてショートカットする事が得意技の1つとしてあるわけです。

最初は手順を覚えて、
ホウホウ、、、。
こうやって、こうしたらこうなるんやな!
って覚え、記憶に蓄えられます。

最初はわざわざ記憶を呼び起こして繰り返していくわけですが、
繰り返すうちに、無意識にそれを扱う事ができるようになるんですよね。

そして、習慣化が深化されて行けばいくほど、無意識になります。
いつしか、その手順があったことさえ忘れちゃうわけです。

おままごとのルールだって一緒です。
それを当然のことのように思い続けていると、
もうそのルールが当たり前となり、ルールであったことすら忘れちゃうんですよね。

今は自然に歩けていても、最初はうまく歩けなかったんです。

あれ?この筋肉の入れ方だと上手く安定せいへんやん!
って、歩くだけでも何度もコケてたわけです。

言葉だって、最初は単に音を真似してただけ。

それが意味を持ち出したんですよね。

いつしか、頭の中で勝手におしゃべりをし、
言葉の中で真実のコンセプトを探し始めるわけです。

その言葉すらルールであり、本来はただの音でしかなかったのにねぇー。

ただね。
ここで大きなパラドックスがあるわけです。

このコンセプトもまた勝手に起こってる自然現象やというわけなんですよね。

小さな子供は、
「くそーっ!歩けるようになりたいぜ!」って悔し涙を流しながら、必死で歩こうとしてたわけでもなく、
「言語を習得しなければ、社会でやっていけへんで!」って思いながら必死で言葉を覚えたわけでも無いんですよね。

このコンセプトを見抜かなきゃいけないわけでも無く、
何かに気づかなきゃいけないわけでも無く、
そして、見抜こうという思いを抑え込まなきゃいけないわけでもなく、

何もすべき事がないんです。

じゃあ、何もしないようにすべきなのかということでもなく、
どうしようもなくコントロールのしようが無いんです。

これはおままごとだからウソで、おままごと以外の真実があるわけじゃなく、
ウソもホントもどっちでも無いんですよね。

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