Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無力を受け入れる。「帰依」について

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何かしらの力。パワーがどこかに存在する。
そのパワーを得ることができると、自分に力が宿る。

っていうね。
こういうコンセプトからくる物語を採用しておりますとねー。
力をどこかに探し求めるわけです。

そして、パワーという物差しを作り上げるわけですね。

この架空の物差しであらゆるものを測り、
自分は力がある。とか、
自分は力がない。
みたいに判断するわけですね。

この物差しを持っている限り、
どうしても力関係というものが見えちゃうんです。

そりゃそういう物差しを採用して、それを通して判断しておるんやから、そりゃそうやろ。
っていうことなんですけどねー。

まあ、こういったパワーがあるっていうのもある種の信仰に似たようなもんで、
実際にはパワーなんて存在しないんですよね。

 

ブッダへの帰依。
仏への帰依。

帰依っていうのは、ホトケさんや、優れた人を信じ、拠り所とすること。
みたいな説明がなされてますが、
実際は、誰かを拠り所にするよりは、自身の無力さに目覚め、それそのものに溶け込まれる。
っちゅう感じのことなんとちゃうやろか?

なーんて僕は思ってたりします。

無力さに目覚める???
なにそれ?

って思われるかもしれません。

目覚めるんやなくて、
無力さを受け入れるんとちゃうん?
って疑問に思う方もおられるかもしれません。

これ、どういうことかと言いますとね。

たしかに
「無力さへの目覚め」と
「無力さを受け入れる」っちゅうのは似てはいるんですが、
似て非なるもんなんですよねん。

無力さに目覚めることによって、無力さが「勝手に」受け入れられるんです。

この無力さへの目覚めっていうのは、
力という信仰。
つまりは物語が、物語だと見抜かれる。

力という物差し、その物差しはイメージで作られた架空のモノなんやん。
という気づき。

っちゅうことなんです。

もし、仏陀には帰依できるかもしれんけど、
このペットボトルの蓋には帰依することは出来へんわ!

って思うのだとしたら、やっぱりどこかに力、パワーという信仰があるっちゅうことになります。
ブッダの方がなんていうかご利益っぽいものがあって、ペットボトルの蓋にはその力がない。
みたいなコンセプトを信じとるっちゅうことですね。

この信仰が単なる物語だと見抜かれるのが、帰依なんとちゃうんかなー。
って思ってるんです。

そもそも、パワーなんてあらへんがな!
おままごとのルールみたいなもんやん!
っちゅうことなんですよねん。

ちょいまてーい!
あんた、自分を過小評価するなとか言ってませんでしたっけ!!!
無力さに目覚めるって、ちょっと矛盾するんちゃいますのん??

もし、僕のブログの過去記事を読んでいただいている方がいたら、そんな風に思うかもしれませんね。

でもそれはねー。
よくわからん物差しの中に小さくまとまらんでええねんでっちゅうことなんです。

力だとかパワーのような物差しによるコンセプトに全てを閉じ込めて、小さくまとまらんでもええがなっちゅうことなんですよねん。

降参する。
帰依する。
無力さを受け入れるとは、
力なんてなかったんやん!単なる作り事のコンセプトやん!
つまりは全ては平等に無力なんやん!っていう気づきです。

「ど、、、どうせ、アタシったら、無力なのよね。。。」

って、悲壮感を持ってダメな私を受け入れなきゃいけないってことじゃ無いんです。

無力さを受け入れるっていうのは、力へのこだわりからの解放なんです。
というわけでね、「無力さへの目覚め」っちゅうことなんですよね。

その目覚めでこだわりの必要性を無力化されますので、無力さが勝手に受け入れられるんです。

それは、作られた物差しからの解放であり、自由であり、
そして物差しなんて最初から実体はないわけですから、そのまんま何も変わってないっちゅうことでもあるわけです。

力という強迫観念から逃れ、そんな自由な中でスキルアップしたけりゃ楽しくそれを遊べばいいんですよねん。

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