Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

前提がいらんのんですよね。

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僕らって何かを見てそれを捉える時って、そこには何かしらの大前提があるんですよねー。
大前提の観念。
大前提の判断基準。
みたいなやつです。

それが無いことには何にも捉えられないですし、思考も組み立てられないんですよねん。
なので、逆にいうと、頭の中で思考によるおしゃべりが延々と続いているとするならば、それは何かしらの大前提になる観念を拠り所にしておしゃべりを組み立ててるっちゅうわけです。

イヤーな感情も一緒で、それをイヤなものとするという大前提があるんです。

捉えられた世界。
その全てに何かしらの前提となる観念があるっちゅうわけです。

そしてこの前提となる観念が強い場合は強迫的な観念となるんですねー。

この強迫的な感覚が、なんていうか観念の折に自分を閉じ込める檻になっているんです。

 

おままごとのルールみたいなもんやで〜。
って言ってるのは、この「大前提」のことなんですよね。

前提とは判断をする際のルールなんですね。
で、この前提に沿ってあらゆることが判断されております。

この前提は勝手に作られとるわけでして、
その前提の中に分離の観念があったり、自分という観念があったりもします。

そして、勝手に作られとる自分という観念は、掴み取られた一部の観念について、
「これはわしがやったことや!」という観念も後付けしてたりするわけです。

するとここに責任というのが発生するわけですね。

風が吹いて屋根を飛ばしても、風は個人ではありませんし、責任も持ってないんですが、
わしがやった!という部分に関しては責任が生ずるというルールが適用されてますと、そこに罪悪感が生じるようになってたりするわけです。

ただ、ちょっとこの辺り、誤解を受けやすいんですが、

ヒャッハー!何をやっても罪悪感を持たなくてもいいんだぜ!
といったような世紀末的世界な話じゃありません。

ただ、謂れのない罪悪感を持ってるパターンの人も多いので、
いやいや、必要あらへんでーなんてこともいうわけですが、
実際は、それを持つ人もそれをコントロールする人もいないんですよね。

前提がないとストーリーは始まらないんですが、
何かを掴まなきゃ始まらない!といった強迫的な観念が何かしらの大前提を作りたがるんです。

で、自分という前提が、
自分は傷ついたから癒さなきゃならない。とかいった風になるわけです。

なにもかもおままごとのルールみたいなもんやーん。

っていう「それ」への気づきは、自分への癒しの必要性からの解放とも言えますので、
究極の癒し
なんて表現もあったりするわけですが、
それは何かが癒されるわけじゃなく、癒される対象がないやーん。
っていう気づきなんです。

おままごとが起こるのもそのまんま許されるんです。

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