Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元の話が噛み合わない時

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僕らが何かしらを観念として掴む前。
その元々はまっさらなんですよねー。
じゃあ、まっさらなのと、まっさらじゃないの違いはなんやねん?
と言いますと、それは何かしらの脚色が加わっているという部分なんですよね。

観念っていうのもこの脚色の部分なんです。

観念を採用しなかったら、そのまんまが残ります。
っていうのは、
脚色されたものを置いておけば、元々のまっさらのままが残ります。

っていうことなんですよねん。

で、そもそも、全てはまっさらでなんの脚色も付け加えられてなかったことについては、僕らは当然のことのように知ってるんです。

つまり「それ」のことを僕らは元々知ってるということなんです。

 

例えばね。
女優のガッキーさんがいはるじゃないですか。

このガッキーさんを男性が見る場合と女性が見る場合では、つけられる脚色はちょっと違ってくると思うんですよ。

男性なら「お!イイですねー!」ってなるかもしれませんし、
女性なら「イイなー!」ってなるかもしれません。

もっと範囲を広げると、
欧米人が見ると
「お!アジア人か!まだ子供じゃないのか?」ってなるかもしれませんし、
アフリカの人が見ると
「ガリガリじゃねーか!もっとメシを食え!」ってなるかもしれません。

まあ、いろいろと脚色があるわけですが、全てに共通するのが、
その脚色を加える前は「何でもない人」という事だったっていうことですねー。

まあ、もっと厳密にいえば、人ですらなく単なる「なんでもない」になるわけです。

そこから、この人ガッキーさんですよ!って言われて初めて、
へぇー女優さんかぁー。可愛いですねーとか色々と脚色が入ってくるわけです。

でね。
僕らが何かを何かとして掴み取れるのはこの脚色の部分だけなんですよね。
そして、そこから物語は展開されるわけですが、物語も脚色があってこそ展開できるわけです。

さて、
悟りだとかスピリチュアルだとか引き寄せだとか。
そういった話も捉えられた話はぜーんぶ物語なわけです。

どう生きるべきか?みたいなことをテーマにした脚色とそこから展開される物語なんですよねー。

引き寄せの法則とか、ポジティブシンキングとかは、その脚色を自分好みに変えていこうぜー!っていう話ですし、
物質世界じゃなく精神世界を生きていこうぜ!みたいなスピリチュアルな話も、脚色の色付けを変えようぜー!っていう話なんです。

僕らが掴み取れるのは脚色の部分だけですので、
どうしてももっとイイ脚色の方法はないか?
というところに興味を抱いてしまうんですよね。

で、非二元なんですけどね。
非二元っちゅうのは、二元に非(あら)ず。っていう意味で、
それは分離っていうのは脚色のイメージの中だけの話であって、
それはあくまでもイメージでっせー!ちゅうことを単に指し示してるだけなんですよねん。

分離がないから、当然、僕とあなたもないし、過去と未来もない。
何かを何かとして限定することもできませんので、なんもない。
みたいな言い回しになるわけですが、どんな言い回しであってもそれは、
「脚色を抜いたらそのまんまやん?」
ってことを指し示しとるわけです。

ただ、脚色がないと何もつかめませんし、つかめないからには言葉での表現もできませんので、
「言葉を超えたもの。」「言葉では表現できないもの」
といった表現もされておるわけです。

それは別に、
「フッハッハッハー!我は言葉ごときで表現できるような安っぽいものではないのだー!!!」
みたいに値打ちをつけてるわけやなくて、
単に言葉や想いや感情を脚色として乗っけてるよねぇ。
でもそれって、実体じゃなくてイメージですやんねぇ。
ってゆーてるだけなんですよね。

で、やっと表題の
「非二元の話が噛み合わない時」についてなんですが、

話し手は、
それはあくまでも脚色であって、実体のなさを話しているのに対して、

聞き手は、
時間は存在しない。とか
私はいない。とか
何にもない。
っていうのをも一つの脚色として掴みとっちゃうところにあるんだと思うんです。

聞き手は、どう生きるべきか?みたいな指針となる脚色が欲しくて、それを非二元にも求めてたりしてね。

すると話し手は、
求めちゃうと、掴んじゃうから、それも脚色になっちゃうよー。
とか言うんですが、

するとまた聞き手は
そうか!求めたらいかんのだな!贅沢は敵だ!むさぼったらいかんのだ!
求めないようにしよう!それっ!滝行だー!
ってなっちゃったりして、、、。めっちゃ脚色を加えたりするんですよね。

ま、その辺のボタンの掛け違いがあるのかもしれないなーって思うんです。

じゃあどうすればええんじゃー!ってなりますが、
どうにかしないといけないことってのも脚色から発展した物語の中にしかないんですよね。
なので、普通にどうにでもして良いんです。
ただそこに問題はないっていう見抜きと気楽さがあるだけなんです。

この気楽さは、好きも嫌いもあってよしと言う気楽さで、
苦もそれはそれでええやないか。って言う気楽さですので、
常にニコニコ、微笑みをたくわえた悟りきった人格になるっていうのとは全然違うわけです。

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