Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

脚色と真実

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ヘーイ
おはようございます。
タクさんです。
いやー、何やら最近、僕が使う路線で、朝の電車遅延が多いんですよね。
僕は仕事場には一時間前には着くようにしてまして、職場近くのカフェにてブログの記事を書く。
みたいなローテーションなんです。
なので、電車が遅延しても、遅刻にはならないんですが、朝の東京の電車が遅れた時の混雑っぷりってひどいんですよね。
なので、そんな時は定刻に職場に向かうのを諦めて、
近場で記事を書きながら、ゆっくりと遅刻するわけなんですけどねー。
ただ、お客さんとのアポがあるとそうも言ってられないのでね。
ゆったりと動くコミコミの電車に揺られて向かうんです。
せっかく早く出たのに、記事を書く時間も奪われちゃうーってね。
で、何が言いたいのかーと言いますと、
そんな時はもうカリカリしとるわけですよ。
「電車が遅れまして、スイマセーン。」
みたいな慣れた車内アナウンスとか聞くと余計にね。
ま、誰が悪いってことでも無いんですけどね。

さてさて、
みんながブッダ。
全てはすでにそれ。

ってね。
言うじゃ無いですか。
まさにその通りなんです。
つまりあなたに嫌な思いが起こっても、
その思いに取り込まれたような気になったとしても、あなたがブッダであることには変わりがないんです。
ブッダはカリカリしない。
嫌な思いが起こることもない。
いつも穏やか。
って思っているのだとしたら、その思いこそが脚色であり、その脚色だけを観るのは、色付けされた演出だけをみて目の前の真実を見失っているよん。
って言う話なんですよねー。

 

あるのはとことん、ダイレクトさだけなんです。
僕らはこのダイレクトさに脚色を加えて遊ぶんです。
その流れでついつい脚色だけを採用してダイレクトさは、みえてはいるんだけど、
見逃されているんですよねん。

非二元とか、悟りとかね。
こう言った話は、その話を理解しようとするよりは、自分で観て確かめてみる事が大事なんです。
信じる話でもありません。
私はいないを信じちゃうと、色々と困ったことも起こるでしょうしねー。

では何を観て確かめるのか?と言いますと、
こんな風に脚色しとるんやなー。
ということを観てみる。
そして、ホント、ダイレクトに起こってる事だけが起こってるよね。
ということを確かめてみるんです。

例えばね。
いるの背もたれに寄りかかると、
背中に感触を感じますよねぇ。

背中じゃなくて、何故かつま先に感じるんですけど。
という人はいませんよね。

これこそがまさに起こるべきことが完璧に起こっている。ということなんです。

悲しい反応も、楽しい反応も同様です。
気づきを得たら不感症になるわけじゃありません。
逆に色濃く感じられるほどです。
まさに完璧に起こることが起こっているわけです。

では、脚色とは何なのか?
と言いますと、
この起こってることに後付けされているイメージの事です。
「こんな事起こるべきではないのに、なぜこんなことが起こったのか?」
といった思いなんかはまさに脚色ですね。

脚色だからといって、
「そうか!これはウソなんだ!だから信じないようにしよう!」
って思うかもしれませんが、そういうことでも無いんです。

脚色もまた起こるべくして起こっているんです。
それを正しく観ましょうねーという話なんです。

つまり、脚色は脚色として起こっているということをそのまんまにみるということです。
脚色を現実にすり替えずにねー。

ほら。
コインの表側を観ているとき、裏側は見えていませんよね。
あるのはまさに見たままのそれ。
コインは表と裏に分かれているというのはイメージ内にしか存在していません。

またコインという呼び名もラベルに過ぎません。
コインというのも表というのも裏というのもぜ~んぶ脚色なんですよね。

 

 

takuteto.hatenablog.com

 

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