Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元メッセージの使い方

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非二元のメッセージとかを読んだり聞いたりしてると、
たまにわかった!ってなることもあるとおもいます。
よくわからないけど、何かがひらめいた!って感じですねー。
でも、その後、何がわかったのかを確かめようとしてみると、
途端になにがわかったんやろう?さっぱりわからん。
ってなったりすることもあるとおもうんですよね。

時には、ワシごときが何をわかったというねん。
こんなに欲深いワシが。。。
と、自分を蔑んだりしちゃったりして、、、。

 

ま、蔑む必要は一切ないんですけどね。
わかった!っていうヒラメキ。
何かのわだかまりが、抜けた感じ。ファッとした感じ。
そういうのがあったら、その内容を確かめる必要もありません。
そのファっの中でリラックスしておったら、それでええんです。

またね。
価値のある(と思っている)偉い人の言葉や聖人といわれとる人の言葉を聞いて、
どうにもわからんわぁー。ってなるのなら、わからんままでええ訳です。
その「わかろうとする」「追い求めようとする」その衝動を置いておいて、単にスルーしたったらええんです。
その言葉の中に真実があるわけやないですからね。
なので、そのわからんはある意味正解なんです。
信じようとしなくてもいいんですよねー。
真実は、あなたの中のファッの中だけにあるんです。

ファッとなるというのは、一瞬の現実からの解放です。
禅の坊さんが手をパンッ!と叩いて、これが悟りである。
とかいうのも、このファッていうのと同じようなもんです。

いろんな人が非二元の理屈を語ってはるとおもうんですけどね。
たとえば物理学的にわたしはいない話を展開してみたり、じっさいに私を探してもどこにもおらんよねぇと自分で感じて見る方法だったりね。
そういった話を難しく考える必要はないけど、なにかしらの好きなもの納得できるものを聞いておくのはいいとおもうんです。

たまに自分がなにかに囚われとる!といった場合には、
そういった囚われと距離を置く時にも役立ちますのでね。

ただし、そういった話の理屈にハマるのじゃなくて、囚われなり、感情に気づくことができたら、もうその理屈は必要ありませんので、囚われと一緒に聞いた話も誰それの教えもポイッて捨ててしまえばいいんですよねー。

その理屈や教えのおかげで何かに気づいた!っていうのもまた、一つの理屈になっちゃいますし、理屈の中になにかしらの真実があるっていうことでもありませんのでねー。

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