Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

過小評価と過大評価

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頑張ると認められる。
せやから頑張らなあかん!
っていうねー。
こういうのって、実は
「頑張らなきゃ自分の価値がない」ってゆーてるのと同じようなもんですよねぇ。

これね、ひどい過小評価やと思うんですよ。自分に対してね。

その過小評価のせいで、
「なんとかしなきゃいけない!このままじゃだめだ!」
に余計に拍車がかかっとるんですよねー。

いやいやいや、ナイですよねぇ〜。
うん。ナイわぁ〜。
だって、自分で自分を過小評価して、さらにそんな自分に鞭打つなんてねぇ。
ナイわぁ〜って感じですよねー。

僕もよくこのブログなんかても書いてるいてることなんですが、
「自分を過少評価」しとるんですよね。

で、過小評価するから「足りない」という思いを誘発して、
何かを得ようとするわけです。
で、得ようとするから、いつまでたっても完璧じゃないし、
いつまでたっても探し求めなきゃいけないわけですね。

「頑張らなきゃダメ?」
「役に立たなきゃダメ?」
「貢献しなきゃダメ?」
みたい思いもねー。
それもまた自身に対する過少評価なんです。

「あの才能溢れる人に比べたら自分はまだダメやわぁ。」
とか
「さすがにスーパースターに比べたら自分は小さいわぁ。」
みたいにね。
そんな風に思ってるならそれもまた、過少評価なんですよね。

いやいやいや、
でも頑張らんでいいとか、我慢しなくていい。
って言いますけど、
それやったら他の人に、
「オマエ、サボってるやん!」とか「アカンやつ」とか思われるやろし、
そんな無責任なのは社会人としてどうなの?
とか思うかもしれません。

でも、そういった他の人の感情や意見に振り回される必要もないんです。
今までだって、そういう意見を取り入れては、それを観念として抱え込んできたわけなんですよねー。
色々と教わってきたものも、もちろん観念であってその観念を正しいとするからその観念の中に閉じこもっちゃうわけです。

で、いくらその観念が正しいことのように見えても、実際には正しいも間違いもありませんので、閉じこもってるのが窮屈に感じるなら、もうその檻を解き放って、「好き」を思いのまま表現すりゃ良いんですよねん。
好きを表現するのに、資格も条件も罪悪感も必要ありませんしね。

その好きの内容がどんだけショボく見えても気にする必要すらないわけです。
ケンケンパが好きなら思いっきりケンケンパすりゃいいわけです。
これを将来の何かに繋げようとか考える必要もありませんしねー。

 

何も自分を過小評価する必要はありませんし、何事も自分を小さくするようなパワーを持っていません。
実際のところは、
どんな壁もない無限のすべて。
それが自身の本当の姿なんです。

いや、でも
「ラマナさんとかの聖者に比べたら流石に自分は小さいし、、、
それに、
ブッダさんやイエスさんに比べたら小さいよねぇ。
全知全能の神に比べたら流石に自分は劣ってますよねぇ。」

なーんて思うかも知れません。
それもまた、過少評価なんですよねん。

聖者もイエスさんもブッダさんも神さまもぜーんぶ観念です。
観念と比べてどうこう思ったとしても、それもストーリーのようなもんですしね。
作られた観念に自分を閉じ込めとるっちゅうことになります。

そやって観念の中に自分を閉じ込めるから、窮屈に感じますし、
その観念を採用しているから、そこから派生するストーリーにもリアル感を感じるわけです。

金持ちは良くて貧乏はダメってのも観念ですし、
頑張らなきゃダメっていうのも觀念ですし、
あの人はあんな苦労を乗り越えてすごい、それに比べて自分はまだまだやわぁ、、、ってのも観念なら、
「苦労は美徳」という考えも観念なんです。

どのくらい観念なのか?
と言いますとね。

ご飯食べたあと横になると、牛になっちゃいますよ。
というのと、同じくらい観念なんです。

もっというと、言葉になってるもんは全部観念です。
偉い人のお言葉も、お経も、般若心経も観念ですし、
もちろんこのブログもその言葉の中に真実があるわけやありません。
言葉は単なる音であり、文字は単なるシミのようなもんですしね。

観念を過大評価すると、その分だけ自分を過少評価しちゃうんです。

あなたは身体に閉じ込められた存在でもありませんし、時間に支配されてるわけでもありません。
身体というのも観念ですし、時間の概念もまた、イメージ上の観念なんです。

だからねー。
言葉の中に真実を探すのではなく、
言葉の一切を置いておけばいいんですよねん。

置いておくと、
つかみ所のなく、たよりなく、一見退屈にみえる何にもなさがあると思います。
そんな中に在ってみる。リラックスしてみるんです。

すると、言葉や観念、あらゆる概念にたいする握力が弱まり、力が抜ける瞬間が起こったりします。
ファッと力が抜ける瞬間です。

あらゆる聖者さんたちの言葉も、その言葉の中に真実があるわけじゃなく、
これらの言葉は、このファッへと誘うトリガーのようなもんなんです。

もし、言葉による、ファッのトリガーが引かれたなら、その中にリラックスしてみたら良いんです。
理由も理屈も必要ありませんのでねー。

聖者さんの言葉は、言葉の中の真実を探求しなくても良いんですよねー。
ちょっと、最近、ファッの要素が足りてへんわぁ〜。ってな時のトリガーがわりに利用すればいいんですよね。
そして、トリガーが引かれないのならスルーしておけばいいんです。

そのファッっとした脱力にリラックスしてますと、観念に閉じ込められた自分も、そのシンプルな全ての中に解き放たれていきます。

その無限の全てが、まさに愛であり、調和であり、全てです。

それはどんな観念にも閉じ込められないものであり、
生と死という観念にも閉じ込めるられないもんなんです。

その無限な素晴らしさこそが、過大でもなく過小でもない、
自身に対する正当な評価なんです。

それはもう、自分という檻にすら閉じ込められない無限さを有するので、
自身ですら無くなっちゃいますが、何かを失うわけでもありません。

すると、
何かを我慢しなきゃならないこともなく、
恐れに従う必要もなく、
さらには、
恐怖とともに遊んでも良いし、
我慢を楽しんでも良いことも
明らかになってくるんです。

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