Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

はたして、動物や赤ちゃんは悟っているのだろうか?

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よくね。
悟りの話なんかでは、動物や赤ちゃんは悟っていますよ。
なーんてことが言われてたりするんですけどね。

じつはそれって、ちょっと違ったりするんですよね。
もちろん、「そのまんま」であるというのはそうなんですけど、
じゃあ、「そのまんま」ってなんやねん!
ってなことを今日は書いてみようかなーって思ってます。

おはようございます。
風邪気味のタクさんです。

どうも毎度のことながら、風邪気味の時っていつも忙しくなってきたりするんですよねー。
昨日は昨日で、関知してないクレーム対応に付き合わされるわ、そのせいで時間がとられて、週明けのプレゼンの用意が遅れとるし、週末は会議で埋められとるし、鼻水は出るし、喉は痛いし、スーパーマリオする時間は取れないし、グズグズグズグズ・・・。

とね。
まあ、みなさんと同じように好きなことも嫌いなことも楽しく起こり続けておるわけですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか?

 

まあ、その辺の話は置いておいて、

ほら、よく、動物は悟っている。赤ちゃんは悟っている。
みたいな話ってあるじゃないですか。悟りの話題になんかなると。

これね。
別に、動物が人の持ってない悟りというものを持っているのか?
と言いますと、ちょっと違いましてね。

人は動物よりもはるかに、「仮定を想定するっていう能力に長けてる」っていうことなんですよね。

よく動物の方が、第六感?に優れてて、嵐が来そうになると、人よりも早く探知して、身を隠す。
みたいなことがあるらしいですが、

人はね。嵐が来そうになる前から、

もし、嵐が来たら困るから、、、。
と、川の氾濫に備えたり、頑丈な屋根を用意したりと、
仮定に対して想定できる能力があるので、備えることができるんです。

動物だって多少は仮定を想定できるんでしょうが、
流石に老後の心配までは気が回らないと思うんですよね。

人はそんなことにまで気が回るという能力を持っておるんです。

仮定を想定する。ということは、つまり「もしも」から始まる物語を作るのに長けてるというわけです。

そして、その「もしも」の物語を成り立たせるのが、原因と結果という概念になるんです。
で、その大前提には自分とその他という分離の観念があるっちゅうことです。

さて、この「もしも」という仮定は基本的には危機を回避する能力ということになります。
その能力に長けているから、人よりもはるかに強靭な肉体を持つチンパンジーよりも栄えることができたんです。

で、この「もしも」の物語ってね。
満たされない物語なんですよね。
なぜなら、危機回避という概念が出発点になっておりますので。

なので、この物語にどっぷりとつかってると満たされない感覚が生じるわけです。

でね、よくある勘違いっていうのが、
この「もしも」の物語の中にある足りないものを埋めれば満たされるはずだべ!
っていう勘違いなんですよね。

でも、そうやないんですねー。
満たされないという感覚はこの「もしも」の物語をリアル感を持って採用している間だけ感じとるんです。

どっぷりとハマると「もしも」の連鎖が起こって来ます。
そうするとどんどんと満たされていない箇所が
《イメージの中だけで》浮き出てくるっちゅうわけです。

悟りとか目覚めっていうのは、悟ってない、目覚めてないがないと成り立ちません。

悟りっちゅうのは、自分という概念も含めて、世界は頭の中で展開されとるある種の想定やんけ!
と、誰でもないなにかが当たり前だった真実を知る?
上手く言えませんが、そういうことですし、
目覚めっちゅうのは、物語が物語だと見抜かれるっちゅうことです。

つまり、動物や赤ちゃんはそもそも物語を作ってませんし、ハマってすらおりませんので、悟ってるわけでも目覚めてるわけでもなく、単に「そのまんま」やというわけですね。

僕らだって、物語を採用している時を除けば「そのまんま」です。
厳密に言えば採用してても「そのまんま」なんですけどね。
「そのまんま」には分離がありませんので、僕や動物や赤ちゃんという分類もないわけです。

動物や赤ちゃんは、
「わいは動物やで!」
「あたちは、赤ちゃんでちゅ!」
とすら思ってません。

そういった分類があるのも物語の中だけなんであり、
自分とその他という分離の観念を作れるのも「もしも」ちゃんの能力のひとつなわけですね。

じゃあ、どうすりゃええんじゃーい!って思われるかもしれませんが、

この「もしも」ちゃんは単なるツールでございますので、
ふつうに、
「お!今日はカバンの中にアメちゃんいれとこ!後でたべたくなるかもしれんけえのう」
と、思ったら入れときゃいいだけでして、なきゃ「無いわ。」でおしまいなんです。
「うお!アメちゃん食べたいのに、カバンの中にないーーー!」
と後悔する必要もなく、「無いわ」でおしまいですし、
「あかんあかん、飴ちゃんを入れ忘れたことを反省しなければ!」
なんて思う必要すらなく、「無いわ」でおしまいなんです。

反省や後悔や罪悪感や不安が起こったとしても、
「うん。起こったわ」でおしまいなんですけどね。

ツールは使うものであって、それに使われると、「満たされない」という誤解に支配されちゃうっちゅうわけなんですねー。

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