Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

泣いても良いけど、苦しまんでもええねん。

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悲しくなったり、泣きたくなったり、
怖くなったり、腹が立ったり、

そういうのって、ホント全然アリだと思うんです。

そして、そういうことの中に苦があるわけでもありません。

そういった衝動も、ま、かっこいい言い方すれば愛の表現やと言えます。

なので、それらに抵抗はせんでも良いと思うんです。

 

それらを抑え込もうとすると、悲しみや怒りがこんがらがってちょっとややこしくなったりするわけですね。

そういうのって、単に見てあげたら良いんですけど、
見てあげるには、まず、抑え込まずにそのまんまにしてやらにゃ見れませんのでねー。

まずは、そのまんまに見てあげたらええんちゃいますか?
ってなことも書いてたりするわけですけど、
これは、苦を受け入れなきゃいけない!
ということとは全然違います。

それどころか、苦を感じる義務なんてあらへんのやで!
ってことなんですよね。

楽あれば苦あり。

みたいなことがまことしやかに言われたりしますが、
ホント、苦が必要なのか?と言いますと、全然そんなことありません。
そんな義務も法律もルールもあらへんのです。

なので、苦はあっさりと放棄しても良いものなんですよねん。

そのために、まず、何かしらの誤解によって生じておる苦を見てあげるんです。
そうしますと、ホントはもっと自分を可愛がってあげなきゃいけなかった部分が明らかになってくるかもしれません。
そんな気づきがあったなら遠慮せずに可愛がってあげれば良いんですよねん。

じゃ、どういうことやねん!
ってことなんですけど、
まず、具体的な解釈された物語の中に苦があるような気がしているけど、
もしかしたら、それは単なる解釈であって、それが苦の原因じゃないのかもしれない可能性があるんです。

なので、一旦物語の全ては置いておくってのを試してみると良いかもなんです。

すると、感覚が残るはずです。言葉を付け加える前の、
キュッとした感覚や、ズーンと重いような。。。そんな感覚が残るかもしれません。
それらの感覚をね。
抱きしめてあげるんです。

今までこういった感覚は重くても、キュッとしてても、
こら!我慢しなさい!って放置されてたり、抑え込まれてたりしてたんです。

すると、苦っていうのは、実は言葉の解釈の中でもなく、キュッとした感覚の中でもなく、
抑え込もうとするときに起こる抵抗感やったんちゃうん?ってなことが見えてくるかもしれません。

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