Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なんにも変わらないということ

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自分がいないってのが明らかになると、
なーんや、委ねてええんや!
ってのが明らかになるんですけどね。

じゃあ、明らかになったら、
頭のおしゃべりが
シーンってね。

止むのか?

といいますと、そんなことはなく、
相変わらず喋っとるわけなんです。

しゃべっとるのが気にならなくなると、消えたも同然なんですけどね。

一瞥体験とか、覚醒体験と言われるものなんかだとね。
人によっては、
スッコーンって思考も想念も消え失せて、
静寂に包まれたりね。

そんなことがあったりするわけなんですが、
だからといって、そう言った静寂!みたいな感じのものが
ずっと続いてるっていうのとは違うんですよね。

それは、単なる心身脱落という現象がただ起こっただけです。

その現象も物語の中のひとコマとして起こっただけなんです。

思考がスッコーンって止んで、もう起こってこない。
みたいなことじゃないんですよね。

ただ、思考ってのはある種の条件付けが元になっていて、
そこから発展していくパターンが多いわけですが、
その条件付けってのが、明らかになってくるわけで、
思考のウソさが明らかになってくるんですけどね。


結局、どんなことも起こりうるんです。

何れにしても、単純に自分がおらんのが明らかになってるだけで、
自分がおらんのは、明らかになろうが、なるまいが、
最初っからおらんかっただけなんです。

だから、何も変わらないわけなんです。

ただ、なんとも表現しにくい人生の重さ。
みたいなものはなくなっていきます。

この重さが探求のエネルギーみたいな感じなんですけどね。

そう言ったもんはなくなっていくわけなんです。

っていうか、最初っからなかったんですけどね。

よく、いろんな先生とかも、何も変わるわけじゃない。
なんて言ってると思うんですけど、
この言葉を「ワタシ」が聞いたとしたら、
何も変わらないのなら、意味ないじゃん!

嫌な感覚とか人生の辛さから解放されるわけじゃないの?
好きも嫌いもそのまんま起こってくるんだったらどうしたらこの辛さから逃れられるのん?

ってね、思うかもしれません。

ホントなーんにも変わらないんですけど、
何かが許されるんですよね。

それは、苦と呼ばれるような感情とか感覚。
それが、そのまま、あっても良いんだ。
という許しなんです。

この子らはホントは愛しいもんなんです。

抵抗とか辛さっていうのは、
そういった感情や感覚を抑え込もうととしたときに起こる摩擦なんですよね。
その摩擦が何となく人生の重さとして感じたりもするもんなんですけど、
それもそのまま、あって良かったってなってくると、
抑え込まなくてもよくなっていくんですよね。

抑え込まなくても良くなると、摩擦が起きなくなってくるんです。
すると、重さとかも軽くなってくるんですよね。

重たい荷物を下ろす感じです。
在ると仮定していた荷物を下ろすので、なんとなく解放感があるように感じたりしますが、
荷物は最初から無かったんですね。
無かったと知るから、その荷を下ろすことが出来るようになる。みたいなニュアンスです。


何でも起こるんですけど、起こっても良いと許されてるから、
それを抑え込まなくても良く、摩擦がなく軽いんですね。

だから、
悟りきった聖者のようにニコニコしてなくてもよくて、
イラッとしたならイラッとして良くて、
嫌なことからは一目散に逃げてもよくて、
我慢していることを我慢してもよくて、
我慢せずにわっしょーい!ってしていても良いわけなんです。

これも最初っからそうなんですよね。
だれも、なんにも禁止しておらんわけですし。

そして、何をしてようが、
なーんもない中に、なーんもなく
ただ在るだけなんです。

いきなり飛躍しちゃってるように聞こえるかもしれませんが、
最初っからなーんもない「それ」があるだけなんですよね。

あらゆる条件付けや定義づけから離れてみると、
ただ在るがあるだけなんです。

最初からそうなので、やっぱり、なーんにも変わらないんですよね。

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