Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あらゆる現れ、その全てが、全部であるそれの表現

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あらゆる現れ、その全てが、全部であるそれの表現です
全てが繋がっていて、境界線は無いんですよね。
外に吹く風、空気、思考、感情、車の音、ペットボトルの蓋、犬のフン、大聖者様、神。
これらの全ては、境界線なく繋がる一連の運動であり、
優劣もなく、あえて言えば同価値です。

そしてあらゆる現象は、表現であり、動きですので元を正せばエネルギーみたいなものです。この動き、エネルギーが生命です。
全ては生命感に満ちた躍動なんです。
あるのは、これだけです。
それで全部です。

 

自分の前にその全部があるのではなく、自分も含めて、これだけがあるんですよね。
エネルギー。つまり動きなので常に変化してるように見えてます。

そして、これしかなく、それで全部がなので、あるとか無いといった概念も無いんですよね。

個別のものはなく、どれかに価値があり、どれかには価値がないなんてことも無いわけです。

その中で、個別の自分があって、その自分は自分をコントロールできるといった誤解が起こってるんですね。

苦とは、何かしらの現象が原因となって起こってきてるんじゃなくて、
思い通りにできないということに対して生じる感情たっだりします。

でもって、自分の内と自分の外ってな風に概念上で分けてたりするもんだから、
外の現象、例えば天気とかはどうしようもないとして、
心や思考や感情、身体は自分のものだからコントロールできるみたいな思いがあったりするんです。

でも、本当にそんなもんコントロールできますでしょうか?
もしコントロールできるのだとしたら、嫌な感情に悩まなくても済むはずですし、
思考に振り回されることもあり得ないわけですからね。

心臓も胃も、あらゆる臓器も自分がコントロールするわけじゃなく働いてますわけですしねぇ。

でも、やはりどこかでコントロールしてる自分がやっぱりいて、
それでいて思い通りにできないところで悩んだりしてるわけですね。

で、そういった悩みに煩わされない自分を作るという方向性へ、ついつい行っちゃうわけでねー。
考えない練習とかがあったりするわけなんですが、
結局コントロールできる誰かがいるわけじゃないので、そういった試みも行き詰まったりするわけなんですよね。

じゃあ、目覚めとか解放とか言われてるのは何やねん?
と言いますとねー。
みんないろんな意味でそういう言葉を使ってたりすることもあるので、
いまいち一概に言えなかったりするわけですが、
単純に自分という動きって、たんに動きでしかなくて、
コントロールする誰かも居てなくて、
境界線もなく、あるがあるだけなんやねーってのが、
自分はいないくせに実感として蘇るって感じでしょうか?

赤ん坊の頃、性別という概念もなく、自分が誰とかいう概念もなく、
どんな概念も採用していない、素のままが、明らかになるってだけだったりするんですねー。

概念が視野を狭くし、なにかしらキューっと締め付けられるような心の感覚が、
すっと、元にもどり、胸や胃のあたりに知らず知らずに入っていた力も抜け、
ただ、何の特徴もない、平凡さの中に溶け込んでいく。

これは、そういった状態なのではなく、なにかしらの状態になる以前の、
元の素のままに、単に溶け込まれる。

掴み取っていた力が抜け、頭の芯にあった思い込みが溶けていく。

そんな当たり前が、単に明らかになるんです。

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