Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

本来は何者でもない

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生まれた時には、みんな誰でもない、何者でもない者だったわけです。

もちろん名前もないわけですしね。

本来はみんな、何者でもないわけなんですよね。

何者でもないということは、自分という観念もありません。

自分っていうのは、何かしらの役柄が必要なわけで。

その役割がない状態で自分ってのは維持できないんです。

なので、自分を成り立たせるには、
比較対象となる他者や他のものが必要になってくるわけなんですよね。

で、この自分っていう設定は都度やってるんです。
昔に一回設定したのが続いているってことじゃなくて、
都度、新たに自分って概念を作り出してるんですよね。

ただ、習慣化されてるから特に意識せずにできてるんです。

ホントのところ、常に自分がいるってわけじゃなく、
結構いないことの方が多かったりするんですよね。

何かに没頭してる時とか、
ぼーっとしてる時とか、
お風呂はいって、クハーッって言ってる時とかね。

ただ、 そうかなるほど!
ということで、
じゃ、一回自分ってのをなくして見るか!
って思ってやってもうまくいかないんですよね。

だって、そうしようとしてるのがすでに自分であって、
もうこの時点で自分っていう設定の中で自分がいないをやろうとしている。
みたいな無理があるからなんですよね。

ま、 ともかく 元々、誰でも何者でもないっていうのがあった上で、
その上で自分っていう中心点を作った上で、
そこから物語を作り上げてるわけです。

ただ、物語を誰かが作ろうとして作ってるわけじゃなく、
半自動的に作り上げられるんです。

自分がいるっていう大前提があるから、
目の前の人は自分じゃない他人である。
つまり、自分と他人がいる。
そして、この他人は自分に対して安全なのか安全じゃないのか?
を探るために、
この人は安全である。
なぜならこの人はこういう人で、、、 と、
物語が半自動的な感じで作り上げられていくわけです。

一度習慣化された、
観念作りをいきなり止めようとするのは容易じゃありません。

さらに、自分で自分という観念作りの習慣化を止めようとするのは 無理ゲーなんです。

これも、自分で何かをしようとしている時点で、
すでに自分という設定の中に入り込んじゃってるからなんですよね。

どんな習慣でもその習慣を変えるのって難しいもんですが、
その習慣があることに気づくことはそれほど難しいもんでもありません。

自分という概念もそれを見ること、
そういうのがあるのに気づくことってのは そんなに難しいもんでもないんです。

ただ、習慣の癖づけってのはやっぱり強いものがあるので、
すぐに自分っていう習慣の癖の中に取り込まれちゃうんです。

なので、 自分ていう観念に気づくっていうことを、
結構しつこくやってみたらいいと思います。

っていっても、ただ見るだけなんですけどね。

何を見るかっていうと、
宙ぶらりんのまんまにしておけない、
何かを固定してわかろうとするエネルギーっていうかクセづけ。

これを、ただみて見るんです。

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