Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ポジティブもええし、ネガティブでもええねんやん

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僕らが見てる世界ってね。
自分の中に作られたイメージを見てるわけなんですよね。

たとえば、目の前に広がる光景も、光の反射を目で受け止めて、
その光を脳内でイメージ変換してるわけでして、
音は空気の振動を脳内で変換していて、
匂いは嗅覚からくる刺激を脳内で変換しているわけです。

椅子に座る感触も神経が感触として変換してるわけでしてね。

つまり見ている世界ってすべて自分の中に広がっているんですよね。

最初は、うわー!すげー!って感じやったんやと思うんですよ。
目を開けたときとか全体がカラフルな光りに包まれててね。

もちろん、目を開ける前から「それ」は在るわけでして、今も在るんですけどね。
その在るという全ての中で、全てがカラフルに起こっとるわけですね。

最初はカラフルな光だけだったんですけど、それに名前をつけだして架空の分別をしだすんですね。

あれはヘリコプターよ!ゆーて教えられてね。

とうころもしー!ゆーて。

最初はとうもろこしも言えへんかったわけです。

で、そのうちにそこに様々な観念が出来上がっていき、
観念がさらなる観念を連鎖させていってるわけなんですね。

目の前のコップを見ているようで、本当はカラフルな光の反射しか見てないんです。
文字を見ているようで、それは意味のないシミのようなものであり、
言葉も本来は意味のない音なわけです。

それに、意味付けをして、こういうことにしておきましょーね〜。
ってやってるわけです。

こういった様々な意味付けに対して、それはそういうことだ!と信じれば信じるほど、
観念として固定化していくわけです。
固定観念っていうやつですね。

でもって、固定観念から様々なルールを作っていくわけなんです。

そうやって作られたルールを様々な人達が持ち寄って、
ある時は共感しあい、あるときは依存し合ったりして、
ルールや観念も関係性の中で変化し、文化となり、場の空気となり、
時にはその文化同士が反発し合ったりするわけです。

いずれにしても、
このブログでは大体の場合は、
それも観念でっせ!
あれも観念でっせ!

ってな感じで言ってるわけですね。

それでいて、観念は観念としてもう起こりますからね。
そのまんまでいいんでっせ!
ってゆーてるわけです。

そして、それが真実であるっていうようなリアル感ね。

このリアル感っていうのが幻想のようなもんでっせ!
ってことなんですよね。

じゃあ、観念は観念としてわかったと。
もーええと。
しつこいと。。。

そこまで言ってないと。。。

というわけで、観念は観念としてわかったら、
そこではじめて、ダイレクトな体の感覚、心の感覚が残るわけです。

いろんな方のお話を聞いたりする上で、このダイレクトさに到達した地点が「それ」だと感じてる方も多いと思うんですけどね。

この辺りからは言葉が通じない、言葉で表現できない部分なので、なんとも説明がし難いわけですが、
このダイレクトさしか無い中で、このダイレクトさをまだどこかで中心点から観ているって言う感覚があるんですよね。

瞑想とかでも、多分到達できる?(到達って言う言い方もかなり変なわけですけど)
のはこの全ての観念を取り払った静寂のこの部分までなんやないか?
って思ったりするわけなんですよねー。
この静寂を究極の空(くう)って表現しとるんやないやろかねぇ。
って思ったりもするわけです。

そこではまだ、分離が残ってるわけなんですよね。

もちろん、ここで言うところの静寂に落ち着くのって、
観念に巻き込まれて疲れた心や体を癒やすのにも凄く良いと思いますし、
ダイレクトな心の声、体の声に耳を澄ますことが出来る場所でもあるわけですので、
それはそれで、もうすっごくオススメするんですけどね。

ハートの声に耳を澄ますってやつです。
妙な観念の声に迷ったりしたらここに戻ってくれば良いわけです。

じゃあ、それが「そのまんま」の「それ」か?
というと、実はまだ分離が残ってるんですよね。

この場合は、まだその「それ」といわゆる観念の世界の行ったり来たりをしたりするんですよねー。

ま、それはそれで良いんですけどね。

静寂の中でうっすら残る中心点。

この観念の種みたいなもの。

それもまた観念やーん。ってなりますとね。

あ、、、この観念っていわゆるカラダの感覚からきとって、
その感覚がいわゆる中心点を作り出してたんやな〜。

そっか、でもって、このカラダを失うのが怖いから、
その恐怖感から、不安とか罪悪感みたいなもんを作っとったんやな〜。

とか、

もちろん、そういったカラダをまもるといった自然現象は、自然に起こり続けるわけですし、
なにも変わることはないんですけど、

そういった自然、大いなる全てである自然に溶け込んで、
中心点もないっていう明らかさ、元々の「それ」が顕になるわけです。

なーんや。
静寂にこだわる必要すらないんやんか。

ってねー。明らかになるわけで、探求が終わるわけなんですよねん。

それでいて、自然は自然として起こり続けるわけで、分離はないのでその自然そのものが自分です。
起こることはな~んも変わらんわけなんです。

それでいて、すべて許されているんです。

ポジティブが許されてるのと同様にネガティブも許されとるんですね。

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