Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我と探求の消失

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自我の消失ってねー。

別にあったもんがなくなるわけやないんです。

単に最初っから無かったことを再発見するってことですのでね。

何も変わりませんし、アホみたいに惚けるようになるわけでもありません。
記憶を失うってことでもなけりゃ、世間離れした何かになるわけでもありません。

単に自我と言われていた思考や感情の言うことは聞いてもいいし聞かんでもいいってことですのでね。

つまりねー。
何かがなくなるというよりは、
今までそういった自我ちゃんのイメージを実体のあるモノやと捉えとったことに気づくわけです。

どこに実体があるんや??
あらへんやないかいっ!

ってね。
それに気づくってことなんですよねん。

 

この話がなんになるんや?
と言いますと、何にもならんのですけど、
今まで、強迫観念のようにこびりついていた、
「自分は何をすべきなのか?」といった観念からは
自由になってくるんですよねー。

今まで、もしかしたら、
「自分は何をすべきか?どう生きるべきなのか?」
これをね。
知っておかなきゃならない重大事項だと捉えてたかも知れません。

けど、
よくよく見てみると、
そもそも、その自分っていうのが、実体もなく定義すらできないわけでして、、

つまり、いてませんのでね。

何をすべきか?どう生きるべきか?はわかりようもないし、
わかる必要すらあらへんやん。

だって、その想いが沸き起こる以前のソレがすでに完全ですやん!
そして想いを誰かがコントロールしたことなんて一回もないやん!

ってことですのでねー。

つまり、観念から自由になるというよりは、
最初っから自由やったことを知るわけで、
自由やからこそ、その自由の中で観念も作り上げられるし、
その観念にもハマれるっちゅうわけやったんですね。

しかも、それすらも行為者もおらず、単にそう見なしていただけっていうね。

行為者がおらんのやったら誰が見なしてたんや??

って思うかも知れませんけど、

もともと行為者はどこにもおらんので、誰が?といった理屈すらないわけです。

つまり、行為には行為者がいる。主体には客体がある。
みたいなね、
そういう概念もイメージでしかないわけやったんですね。

なので、
わかってなきゃいけないものって何もあらへんのんやん!
最初はそうやったやん!
という自由さが残るんです。

何々であるべきってね。
多分、どっかで習ったんですよ。
その習ったことがね、記憶となって、判断材料となっておったんです。
最初はなかったんやん。って知るわけです。誰でもない何かがね。
わからんでもええんやん!ってね。

で、わからんでもええわけですので、探求のエネルギーも行き場を失っていくんです。

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