Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ホントに委ねてええんやぁ〜!てのが明らかになる時。

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おっはようございます。
タクさんです。

今日は、僕が前に、
うおっ!マジでホントに委ねてええんやぁ!
って思ったキッカケのことについて書いてみよっかなーと思います。

皆さんも、覚醒体験とか、一瞥体験とかね。
そういう体験があった人も多いと思うんですけどね。

あ、別にこういった体験があるとかないとか、
そういうのはホント関係ないんでないならないで全然いいんですけどね。
別に、そういった体験があったから、
ちょっと悟りに近づくとか、
悟りへの道がひらけた!
とかね。
そういうのでも全くないですし、
完全に関係ないですからね。

逆に、その体験をこじらせて、ややこしい事になることの方が多いですからね。

と、前置きをしておきまして、
僕もね、そういった体験があってね、
その時は、完全に委ねしかない。
許ししかないし、
もう何をしようとしなくても、最初っから完全完璧なんやんかー!

ってね、
そういうことを、この体験の時だけは感じたりするんですよね。

でも、この体験の感覚が無くなっていった時には、
知識では、もう体験したこととして知ってるわけなんですけど、
でもやっぱりしっくりこないんですよね。

完全に委ねてええんや!ってことを知っていても、
現実では、容赦無く選択する場面をどんどん突きつけられるじゃないですか。

朝起きて、すぐに今日はどんな予定なのか?とか考えたり、
仕事の準備もしなきゃならないですし、
今日はお客さんとアポがあるから、どんな服着るか?
と考えて、
さらに、ちょっとひとっ風呂浴びてから家を出たいけど、
時間あるかなぁ?って時計を見て、
おっ!イケるで!ってなって、ささっとシャワー浴びて、
朝のテレビつけて、
たまたま流れてくる星占いに、
お!オレの山羊座さんは今日は何位かなぁ〜。
なんて、見て、
ちょっ!!!!
最下位ってどないやねん!
左足から踏み出すと、運気が回復するのかー。
にしても、今日はちょっとお客さんの前で調子に乗りすぎないようにしなきゃならんかもなぁー。
もう、はいっ!はいっ!ってゆーて、あとは黙っといたろかいなぁ〜。

みたいなことを考えてたら、エライコッチャ!もう家を出なあかん!
てなことで、
鍵は持ったかなぁ?
スマホは〜。。。
なんか本持ってったろかいなぁ。

みたいなことを考えて、、、、

といったようにね。

もう朝のちょっとした時間から、ガッツリと思考が湧き上がって、
選択する局面を突きつけられて、
どーしよっかなぁー!

て悩んだりしてね。

一気に思考の世界に持ってかれたりしてね。

はたまた、そういった体験があるばかりに、
この思考も幻想なんや!ってことも知ってたりして、
でも、なんとも重い感覚に悩まされたりして、

「はぁ、、抵抗が起こってるんかなぁ」

なんて思ったりしてね。

また思考のおしゃべりに巻き込まれてもたー!
みたいに落ち込んだりしてね。

よし!委ねたるでー!
って思ったりしても、
やっぱり、どうしたらいいかだけは考えておかないといかんなぁ〜。
なんて考えたりしてね。

体験前には気にもしなかった思考でも、
余計に気になったりして、重く感じたりしてね。

そんな感じになってる人も多いんじゃないかなぁ〜って思うんです。

で、
冒頭のマジで委ねてええんやぁ〜ってね。
なった時はね。

それは、なんていうか、一瞥体験みたいな特別な感覚とともに訪れたわけでもなく、
ホント当たり前の発見というか、

最初から自分がおらんのやから、委ねようが委ねずにいようが一緒やん。

みたいなことが明らかになったわけなんですが、

これの一つのきっかけになったのが、

選択をしている時の自分を、ものすごく注意深く観察してみた時なんです。

選択っていうのって、やっぱりあるように感じるじゃないですか?

コーヒー飲もうか?それとも紅茶にしようか?
みたいなね。

で、色々と考えて、よし!コーヒーにしよう!
って思ったりね。

この思考の流れとか、その時の感じとかを
ホントに注意深く観察してたんですよ。

で、その時に気づいたのが、

選択なんて起こってへん。

ってことだったんです。

思考がじゅんぐりと現れてはいるんですけど、
誰も何も決めてないんですよ。

単純に思考が現れてるだけで、
その思考の持ち主なんてどこにもおらんのです。

でね。

よし、コーヒーにしよう!とかいう思考が起こってたのにもかかわらず、
店員さんに、「アイスティーください!」とか言ってたりするんです。

そして、後から、直前で気が変わったわぁ〜。
みたいなね。
これも思考としてただ起こってるだけなんですけどね。

自分が選択をしているという
辻褄を合わせるための思考も出てきたりしてるんですけどね。

そういった想念がただ起こってるだけで、その主体者ってのが
どこ探してもいない。

だから、選択をしている誰かもおらず、
単純に想念があるだけ。

その想念も、言葉に変換される前は、単なるエネルギー的な感覚でしかないんですよね。

でもって、注意深く観察してる自分ってのも、ひとつの想念でしかなくて、

でね、

あ、、、

って感じで、何もなさがガツンと明らかになるんですよね。

この辺りがもう言葉の限界なんですけどね。

委ねる誰かも委ねられる何かもなく、

在るがあるだけやったんですよね。

だから、ホントに委ねてええんや〜。
ちょっと怖かったけど、怖がるようなもんでもなかったんやぁ〜。

てね。

僕の場合は、ホントに徐々にですけど、
ただの在るが明らかになっていったんです。

なので、一回、

選択が起こってる時に
注意深く見てみたらいいんじゃないかなぁ〜って思います。

観念をとおさず、単純に
選択がどんな感じで起こってるのか?
観察してみると、面白いかもしれません。

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