Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観照意識、みるものになりきってみる

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かーっ!
暑い!
暑いですなー!
と、いうわけで、おはようございます。タクさんです。

もうね、スコールとかあるし、暑いですし、
日本の環境って熱帯気候になっとるんちゃうんか!って思うんですよ。
夏だけはね。

暑い地域ではね、あんまり働かないでのんびり過ごした方が良いんですよ。
南国の人ってのんびりしてるじゃないですか。
勝手なイメージですけど。

物質的な豊かさはね、日本は進んでるかもしれませんけど、
そういった豊かさって、もっともっと!という思いを作り出すだけで、
その先に心の平安はないんだってのはもう明らかになってるじゃないですか。

なのに、なぜかチキンレースのごとく、まだまだ物質的なものを追い求めるっちゅーのはね。
もうオワコンなんやと思うんですよ。

なーんてね。

なんかクソ暑い上に、仕事が山積みで、夏休みなんて来るんかいな?
と思ってるタクさんの愚痴から始まったわけですが、
皆さまいかがお過ごしでしょうか?

今日はね、観照意識。
つまり、見るものについて書いてみよっかなーって思います。

そのまんまにして、見てみる。

これをどこまで見れるか?
徹底的に見てみる。

この見てるっていう意識が観照意識と言うわけなんです。

観察してみるって感じに近いかもしれません。

なにやら思考が浮かんできているのであれば、それを見てみるんです。

べつに思考が生まれる原因とかを探ったりする必要はありません。

ただ、見てみるだけでいいんです。

すると、思考の奥に感情的な何かがあるかもしれません。

そうであるなら、それをただ見てみるんです。


身体の感覚が起こっていたなら、それも、ただ見てみる。

うん。座っていて足に感覚があるのであれば、ただその感覚だけを見てみるんです。

でね、

フッフッフ!
ワタシに見れないものはない!

くらいにね、
きわまってみるんです。

するとね、もうなんでも見ることってできるんですよね。

実はすでに見るものになりきっていたはずなんですけど、
見てることすら忘れてたんですよね。

ホントのところは。

さて、
この見ている意識。
観照意識なんですけど、

見るが極まってくるとですね。

自分は今見ている。
ということも観察できちゃうんですよね。

するとですね、
もうこの観照意識すら見てしまいますので、
全部見てることになるんです。

するとですね、自分と言う感覚も見ていることになるので、
観照意識の中にはなにも残らないことになってくるんですよね。

見てる者がいないんです。

見るモノも、見られるモノも見てる。

見てるという行為も見てる。

そして、見るものがなかったという見抜きが起こった時、分離も元々なかったことが明らかになります。

見るものも、見られるものも、見るという行為も、
同じで、そこに分離がないんですね。

すると、気づきだけが残るんですね。

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