僕らの探求が起こっている時、
この探求って、もうわかったことが崩れ去る連続になる。
みたいなね。
もうパラドックスの連続なんですよね。
わかって掴んだ!と思ったこと!
それが違ったということの連続。
どうしても、何かを掴もうとするときって、
認識が必要になるじゃないですか。
でも、この認識が正しいのか間違いなのか?
ってのは確かめようがないんですよね。
なので、この認識でいいのかなぁ?
って疑問はいつまでたってのぬぐえない。
他の人はどう言ってるのかなぁ?
って確かめたりしてね。
あの人も同じ認識っぽいし正しいんだ!
って思って見たり、
あれ、この人は違うこと言ってる!
どこか間違ってるのかなぁ?
とかね。
で、結局のところ、認識に頼ったとしても
正しい認識っていつまでたっても得られないんですよね。
完全完璧な認識って無いんですよね。
認識に頼って何かを分かろうとすること。
これがただの習慣。
物語づくりだったんですね。
何かしらの神秘的っぽいような体験があったとしても、
これがいわゆる○○体験なのかな?
とかね。
そやって自分の体験を認識の枠にはめようとしちゃったりね。
一瞥体験をしたはずなのに、まだ自分が残ってるんです!
みたいなのも、
一瞥という名で、なにかしらの体験を認識にはめ込んでるからなんですけどね。
なので、いっかいこの「認識」っていうもんを疑ってみたらどうでしょう?
自分の認識をうたがってみるんじゃなくて、
何でもかんでも認識というツールを使って掴もうとする一連のパッケージを疑ってみるんです。
認識が起こってそれにレッテルを張り付けるという一連の流れ作業自体を見てみるんです。
なんでわかることにこだわっとるんや?
誰が、わかることにこだわっておったんや??
わかるってのは、そもそも何かしらの物語に固定するってことかも知れへんで?
ってなことを見てみるんです。
何かを掴んで、これやなかった!
ほかを掴んで、これでもなかった!
んんーーーー!わからん!
わからーん。
んん?
あ、掴むこと自体が違うんやん!
掴まなきゃそのまんまやん!
そのまんまやーん!
という事なんです。
これがそのまんまにして見てみるという入口です。
そのうち、見てる誰かってのも空っぽやった!
ってなるんですよね。