Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

体験は香りのようなもの。

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起こっている事がそのまんま起こっているだけで、
そこに行為者はおらず、すでにもう在るがままなんです。

起こっている体験。
それがもう、すでに「それ」なんです。

でもって、
「それ」しかないわけなんです。

この体験というか、経験。
それしかないわけなんですが、

じゃあ、なんで思考とか体験とかって実体がなくって、
幻想みたいなものとか言われてたりするのん?

この思考とか体験も「それ」なんやったら、なんで幻想なん?

みたいに思ったりしますよねぇ。

この起こってること、体験について、もうちょっと深堀りしてみるとですね。

えーっと、
僕もこのブログでよく「そのまんま」見てみたらええねん。
みたいなことを言ってるんですけどね。

経験とか体験って、そのまま観てみたら、ある種の感覚でしかないんですよね。
でね、この感覚以外はレッテルみたいなもんなんですよ。

例えばね、
ハワイにバカンスに来てるとするじゃないですか。

青い海、白い雲!
目の前に広がる海岸線!
海岸線の向こうから立ち上る入道雲・・・

白い浜にはヤシの木が風に揺られ、

アロハーオーーーエーーー。
日々の喧騒からはなれ、
聞こえるのは、
かすかな波の音。。。。


おっと、
ハワイ行ったことないですけど、
書いててなんか今の仕事場から逃げたしたくなりましたけど、、、

まあ、このね、
ハワイってのはレッテルじゃないですか。
波の音ってのもね。

そのまんまに、ダイレクトに見てみると、
この音は波だ!と決めつける前にある、何かの音があるんですよね。

で、
目の前に広がる海岸線も、
海岸線だ!とレッテルづけするまえにある、
名もない風景があるんですよね。

自分がハワイにいるというのもレッテルで、
どこに行こうが、何をしようが、
ダイレクトな感覚としては、

五感と心の感情を通した感覚のみが起こってますよねぇ。

それが、そのまんまの感覚なんですよね。

みんな滝に打たれてみたり、瞑想してみたり、座禅してみたりするのは、
このそのまんまの感覚を掴むためにやってるようなもんやないかな?

と思うんですけどね。

ちがうわ!もっと崇高な奥の深いモノじゃ!
とか言われそうですけど、

もし、崇高な何かをもってやってるんだとしたら、
そんなものも手放してしまえばいいんだと思うんですけど、

でね、
在るのはそのまんまの「それ」だけなんですけどね。

じゃあ、そこから出てくるレッテルやらなんやらがあったらあかんのかい!
といいますと、そういうわけじゃなく。
レッテルだけを追いかけると、「そのまんま」を見失ってしまうってだけなんですよね。

カッコいい言い方をするとすると、
花が咲いていて、豊かな香りが漂っている。
この香りは花から出てくるひとつの表現ですが、
この香りに当たるのが、いわゆる現象で、
そのまんまが花そのもの。

香りだけが全てだと思って花を見ていないのが、
物語だけに没頭している感じで、

その香りだけを花だと思っていたら、綺麗な花びらとかを見逃してますよ。

と言う感じですかね。

文章力なさすぎで、おしゃれな言い回しが想像以上にできませんでしたが。。。

 

まあともかく、
レッテルづけをしないとすると、固定化される前の、何かしらに気づいている気づきだけがあるわけなんですね。

つまり、体験とか思考みたいなものは香りのようなもので、気づきが元にあるという事なんですよね。

で、この気づきだけしかないんですよ。

この「だけしかない」というのがね。
ちょっとしたミソといいますか。

それを見ている自分というのもいないという事なんですね。

分離がないんです。

だから「それ」しかないっていうわけなんですね。

「それ」とは固定化されない、何でもないモノ。
この何でもないモノにレッテルづけをすると何かになるわけですが、
なーんにもしないとなんでもないモノですね。

で、それを見ている誰かも行為している誰かもいないので、
「それ」しかないというわけなんです。

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