Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」が起こす勘違い。

f:id:takuteto:20190228220804j:plain

「私はいない」という言葉を聞くとね。

は?この私の感覚自体がないってこと???
でも、私、話したり、頭かいたり、歩いたりしてるんですけどっ!
どういうこと????

でも、大の大人が微笑みながら、マジな顔してゆーてはるし。。。
もしかして、私が知らない何かが隠されているのか???

なんてね。
思ったりするもんですよねー。

「私がおらんのやったら、誰がどの口でそのセリフを喋っとるんや!」

ってね。

というわけで、今日はこの辺についてかいてみたいと思います。

 

結論から言うと、
みなさんが、今まで、私だとしていた感覚

これは「私の」感覚ではなく、単なる感覚
そして、その正体は、気づきの意識です。
別の言い方でいうとなると、在るという意識なんです。
それに「私の」を後付けしているだけなんですよねー。

この「私の」が錯覚の原因となるんです。

例えばね。

指先に痛みを感じた時、「意識」は指先にフォーカスされます。
すると、「私の意識」の「意識」が指先にフォーカスされることによって、
「意識」は指先になりますよねぇ。

そうすると、「私の意識」は「私の指先」に変換されるんですよね。

指先が私ではないのに、錯覚として私の指先という感覚を持ち込んじゃうわけです。

指先の痛みが引き、指が意識されなくなると、指は私ではなくなります。

そしてまた、次に意識されているものに、「私」は乗り移るんです。

これが「私」がいるという錯覚を起こす原因だったりするんですよねーん。

ですが、意識そのもの。この私としていた感覚。
これがないというわけじゃありません。

指にフォーカスできるのも、
思考にフォーカスできるのも、
その「私」としていた感覚。意識。在る。
があるからこそです。

一番身近な感覚がまさに気づきの意識なんですが、
あまりに近すぎて、この感覚は掴むことができません。

そして、僕らは掴めるものの中で一番近いものを「私」としているのと同時に、
この感覚を「私」と混同しているというわけですねん。

この気づきの意識はずっと在るわけですが、これは掴みとれません。
僕らが掴めるのは分離分割されたものだけだからです。

掴むというのは、意識のフォーカスです。
なので、何かに意識がフォーカスされている間だけ、
「私の」が存続します。

そして、「私の」という観念が自然と主張せず、静かーに、何かにひっつくことによって、
感覚として、「私」という行為者がいるような錯覚もまたここで生じるんです。

どういうことかと言いますと、「私の」というからには、わからんけどどこかに、主体がいるんだろうなー。
という感覚がスッと納得させられちゃってるというわけですねー。

ここで、そうか!すべてに気づいている意識!観照者こそが私なんだな!
って思ったりもするわけですが、
この観照者というのも実はいないんですよね。

変な話、何かしらの音が聞こえた時、
起こってるのは、その音が聞こえるという経験だけなんですが、
後付けで、聞いているのは、主体である「私」そして聞こえている音の発生源は、
「私」じゃない何か。

みたいな分離による整理整頓が、単にイメージ内で起こってるだけだということなんです。

 

 

takuteto.hatenablog.com