「いまここ」じゃない何処かに向かおうとする衝動。
その衝動に気づき、その衝動を手放した時、いま、ここにリラックスできる。
この辺の話しを昨日の記事では書きました。
今日はこの言葉の見落としについて書いていきますね。
僕も以前、こういったことを聞いて、実践していたんです。
今、ここにリラックスすることはとても静寂であり、ほんと、感覚としてはそれそのものです。
思考のおしゃべりも息をひそめ、時間すらも思考が作り出した物語なんだと気づくことが出来ます。
ほんと、完璧なんだと実感できるわけですね。
ガンガジという偉い先生も、このいまここの静寂に落ち着きなさいとか言ってはったし、まさにこれこそが「それ」なんだと思うじゃないですか。
でも、日々の仕事や雑多な事にもまみれることもありますよね。
そんな時はその雑多なことをやらにゃいけません。
この戻ってこなきゃならないこの雑多なことについてはどうすりゃいいんだ?
って思いませんか?
僕はこのことを、いろんな本とか先生が言ってることを聞いたりしてたんですよ。
すると大体は、また、この静寂に戻ってくるんです。
っていう答えが返ってきます。
それには、瞑想が最適ですよ!と進めてくる先生も多かったです。
朝と夜、瞑想をすることによってこの静寂に戻ってきてリセットするんです。
という事なんですよね。
他には、蓮の花は泥の上に咲くんです。
泥にまみれて蓮が花開くように在りなさい。
とか、分かったようなわからんような、言葉だけはカッコいいことを言われたりもしましたが、
やっぱりわからんかったんです。
ずっとこの静寂に居続ける時間を長くして、自分の中に定着させていきましょう。
みたいな答えを聞いたこともありました。
でもその答えもしっくりこなかったんです。
で、結局、いまここと今じゃない何処かを行き来してしまう事になったんですよね。
この先の答えがどこにもなかったんですよ。
僕が当時見落としてただけなのかもしれませんがね。
そしてこの答えこそ、おおきな見落としだったんです。
この答えというのはね、
いまここも静寂も、そんなもんも無いねんで!
ということなんですよね。
この今ここに静寂があるという思考。
その思考が、いまこことその他を行き来してしまう要因だったわけです。
で、ホントは「いまここ」なんてのも無いんですよ。
そして、静寂なんてのも無くて、そこにリラックスするなんてのも意味がなかったんです。
いまここにリラックスするコツを覚えた方は、この「いまここ」って本当にあるのか?
を観察してみることをお勧めします。
「いまここ」という言葉も有名になりすぎて、なんかひとりあるきしているんですよね。
本当に「いまここ」なんてものもありません。
「いまここ」があると思っているから、「いまここ」と「いまここじゃない何処か?」を行き来していたわけなんです。
まずは、いまじゃないどこかを望む自分に気づき、
そして、今ここに落ち着いた時は、この「いまここ」に落ち着くことでおこるジレンマというものに気づく必要があったんですね。
それが、この「いまここ」なんてのも無いんやーん!もーう。
ということの気づきです。
このジレンマさえも見抜いた時、見抜きが起こった時ですね、
「いまここ」じゃない何処かに目を向けていても、いまここにリラックスしていたとしても、
どちらでも全部である「それ」とは一切は離れていなかったことに気づきます。
「それ」しかなく、「それ」しかないからもう全部なんです。
「全部」しかなく、起こっていて起こっていないんです。
どちらかに限定される何かは存在していなくて、存在だけがあるんです。
ありゃ?最初っからそのまんまで良かったんやん。うけるー(笑)
って感じです。
ここで探求は終わりを迎えます。
どこにも探すところはなく、全部である「それ」から離れることもありえないわけです。
まるで、孫悟空がどんだけ動こうと、おしゃかさんの手のひらから逃れらないのと同様なんです。
明らかすぎる「それ」だけがあります。明らかすぎるので探究すべき何かは無いんです。
そのことが見抜かれると、もう探究の意味や意義が失われるんです。