Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

いまここと今じゃない何処かを行き来してしまうあなたへ01

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いまここにリラックスするだけ。
リラックスできてないのは、今ここじゃないどこかに意識が向かっているから。
でも、今ここはいつでも今ここなので、今、戻ってくることが出来ます。
そして、今リラックスすればいいんです。

ということについて今日と明日の二回に分けて書いてみたいと思います。

この「いまここ」の説明については、ひとつ大きな見落としとジレンマがあるんですよね。
そのことについてはあまり語られていないような気がします。
このジレンマの部分を端折っちゃうのは、ちょっと説明不足なんじゃないかなぁ。
と感じるんです。

今日は、この見落としとジレンマのことは置いておいて、
いまここにリラックスすることについてから書いていきますね。

■■■

目の前のそれ。
それはもう「それ」そのものです。

起こっていること。
それももう、「それ」そのものなんです。

そして、起こっていること以外に何か起こっていることはありません。

そりゃそうですよね。
普通に考えれば当たり前のことです。

そして、僕らが目指している「それ」。

それは、その目の前の一見退屈で、どうということもない「それ」。
それそのものが目指していた「それ」なんです。

青い鳥は足元に最初からいた。
っていう事なんですけど、
青い鳥でもいたらわかりやすいんですが、
足元には見慣れた現実が表れているだけだったんです。

実際には見慣れていたり、退屈だと思っていた目の前の「それ」そのもの。
それがもう全てなんです。

退屈で見慣れていたので見逃していたんです。
ずっと「それ」を見逃していたんです。

なぜなら、「至福」とか「悟り」や「目覚め」。
それはもっとキラキラしていなきゃ困るし、
もっと至福でもっと愛に溢れていなきゃ嫌ですもんね。
そして、そういうキラキラだと思い込んでいるんです。
自分の中のイメージとしてね。

だから、常にいまここ以外のどこかを探求しているわけなんです。

でも、本当にいま、ここにあるそれは、退屈でしょうか?
見飽きたものなのでしょうか?

なにがそうあなたに思わせているのでしょう?

それは、今じゃないどこかに、キラキラな至福を探し求めようとする衝動じゃないでしょうか?
そして、その衝動が、今ここを退屈なものにしているという可能性は無いでしょうか?

自分の中で一度問いかけてみると良いかもしれません。
すると、その衝動に気づくことが出来るかもしれません。

このいまじゃないどこかへと目を向けさせようとしている衝動。
この衝動こそが分離のエネルギーなんです。
そして、そのエネルギーは、常にどこかを目指しているので、満足することはないんですね。
それが渇望の正体なんです。
いわゆる「欲」とよばれるものです。

この渇望の正体に気づいた時、その分離のエネルギーは手放されます。
すると、今ここにリラックスすることが出来るんです。


■■■

さて、ここまでお読みになっていかがでしょうか?

なんていうか、よく聞く悟りのお話しかもしれませんが、
まさしくその通りに思えたりしませんか?

この話のどこに大きな見落としがあるのでしょう?
僕も今読んでみて、これで良いじゃん。ここで記事を終わって完璧じゃん!
って思いました。

もちろん、ココまでの話が間違っているという事ではありません。

ですが、この「いまここじゃない何処か」を手放し、「いまここ」にリラックスすること。
この説明には大きな見落としとジレンマがあるんですよね。

明日はこの見落としとジレンマについて書いていきたいと思います~。

では、まったあっしたー♪

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