Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【私は在る】なぜなのか?頭の中のおしゃべり

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ふぇーい。
おはようございます。

タクさんです。

ま、生きてりゃいろんな疑問にぶつかりますよねー。

なぜなぜ?
どうしてなの??
ってねー。

そういえば子供の頃、
エジソンの伝記を読みましてね。
その電気の中でエジソンは子供の頃の話があったんですけど、
彼はどんなことにも「なぜ?」と聞く癖があったとかそんな話が書いてあったんですね。

そうか!
なぜなのか?ということをガンガン聞いたら賢くなれるのか!
ってねぇ。
僕も感じたもんなんですが、
ま、だいたい大人にそれをやると最後にはキレられるんですよね。

まあ、
なぜ?
なんでなん?
てね。
際限なく聞けるわけですよ。
これって終わりがないんですよね。
だからこれを繰り返し聞くのはズルいんです。

ちなみに私は誰か?
この問いかけも際限がありません。

なぜ?という問いかけも、
私は誰なのか?という問いかけもなぜ際限がないのか?と言いますとね。

それはなんのことはない。
答えがないからなんです。

 

 

頭の中のおしゃべり

私は誰なのか?
これはなぜなんだろう?
これってね。
際限なく続けることができます。
そして、なぜなのか?や私は誰なのか?の繰り返しってねー。
ぜーんぶ、頭の中のおしゃべりなんですよね。
音にすらなっていない雑音です。
つまり何にもなっていないものですよね。
そりゃー際限はありません。
材料なしでいくらでも作れるんですもんね。
際限がないのは、実体がないから。
音にすらなっていない頭のおしゃべり。
これに右往左往したり一喜一憂しているんです。

頭の中のおしゃべりが消える時

この頭の中のおしゃべりなんですけどね。
僕らは、このおしゃべりに依存していたりするわけなんです。
ちゃんと頭の中で考えて行動しなきゃ何も始まらないじゃん!
って思ってるんですが、
頭の中のおしゃべりは全てが解釈なので、何かが起こらないことには、
おしゃべりができないんです。
どういうことかというと、僕らは考えて行動しているんじゃなくて、
行動の後、解釈として考えているんです。
つまり、何かをするのに、このおしゃべりって必要ないんです。
でね。
このおしゃべりって消えるんですよね。
そして、その消えていることにも気づけるんです。
僕らは何かを考えてないと何も始まらないって思ってたりするんですけど、
そんなことなくて、消えたままでも全く大丈夫なんです。

この消えたままでも大丈夫っていうある種の覚悟。
この覚悟が許しなんです。

当たり前の静寂

このおしゃべりがシーンと収まってるとき。
これはもう完全なリラックスです。
そして消えているということに気づくとね。
「あれ?私っていないじゃん!」
ってなったりするんですけどねー。
これって、頭の中のおしゃべり。
つまり考えの中にしか私は存在してませんので、
おしゃべりが消えると、私はいないんです。
そして、このおしゃべりがないということのリラックス感がね〜。
なんていうか、全てからの解放のように感じるんです。
このおしゃべりがないことが本当は当たり前なんですけどね。
僕らは当たり前というものを何かしら考えのことだと感じていたりするので、
この何にもなさがあたりまえとは思ってもみなかったことなんですよね。

喧騒と静寂は同じ

この頭の中のおしゃべりが消える静寂は、人によってはちょっとした混乱があるかもしれません。
また、このリラックス感がとっても良い感じなので、これを持続させたい!
といった思いも湧いちゃうことがよくあります。
この思いを掴むとまた、この思いに付随する頭の中のおしゃべりが始まっちゃうんですけどねー。
どうすれば、この状態を持続できるのか?
何を練習すれば良いのか?
何を掴めば良いのか?

みたいな感じでね。
これらの頭の中のおしゃべりが喧騒となり、静寂を覆い隠すわけですが、
実はこの喧騒って、ホントに声のないおしゃべりですのでね。
実際にはうるさいはずがないんですよねー。
「ええ?喧騒と静寂って一緒じゃん!」
ってことなんですよ。
だったらもう喧騒も静寂も一緒なので、状態を保つとか保たないとかそういう話じゃないことも、なんていうか、自分にバレちゃうんですよね。
するとこの喧騒は静寂になるんです。
僕らは常に、今ここにある静寂とともにあることを知るんですよねー。

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