Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

一瞥体験と虚しさと悟後の修行

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あらゆることに意味はアリマセーン。
っていうのはね。

意味づけというのが、分離をしてものを観るための道具になっているから。
ということなんですよね。

実際に何かを見るときには、何かにフォーカスしなきゃなりません。
そしてフォーカスするためには、フォーカスするものとそれ以外に分けなきゃなりません。

そして、フォーカスするときの大義名分みたいなものが、意味なんです。
この意味がないと、フォーカスすること自体の意味が失われますのでねー。

この辺のことを瞬時にマインドで行われているというわけです。

このマインドで行われていることも含めて、全てですし、
この全ては、常に変化を繰り返しております。
つまり、自然現象だというワケです。

自然とは変化のポテンシャルと表現に満ちているというワケですねー。

変化のポテンシャルとは、変化を促すエネルギーに満ちているということです。
そして、表現とは、このエネルギーの表現なんです。

エネルギーとは、動きです。
働きと言っても良いかもしれません。

動きや働きは分離のしようがありません。
だから、分離は実際にはありえないんですよねー。

ですが、僕らが何かを捉えるには分離させないと捉えられません。

ここに根本的なパラドックスがあるんですよねー。

そして、このパラドックスを生じさせる大きな錯覚になっているのは、
僕らは何かを捉えないと得られない。
捉えないと始まらない。
と思い込んでいるということなんです。

 

さて、僕らが何かを捉える場合、
実は捉えていると気づいている部分って実は氷山の一角だけだったりするんです。
何かを捉える場合は、無意識下で、すでにいろんな判断をしています。

本来は物質ですらないものを、イメージ内で物質化し、そして分割し、あらゆる観念を付け加えた上で、
やっと
「これはコップだね!」
と捉えているワケなんですよねー。

つまり意識下にあるのは、ほんの氷山の一角なので、
ここで、
「全てはエネルギーなんだ!」
とか、
「分離はないんだ!」
ということを理解しようと頑張ってみても、
もう、理解しようとしてる時点で、
見誤っちゃうんです。

かといって、何もしないをやろうとしても、これまたうまくいきませんのでねー。
なので、理解しようとする衝動と距離を取ってみると、初めてその衝動を観ることができるので、オススメしているんですけどねー。

ただ、この観ている者になるということでもないんですけどね。
それもまた、何者かになろうとする衝動が働いているだけですのでねー。

一瞥体験なんかでは、この無意識下の段階がすっ飛ばされるので、
ダイレクトにありのままを目の当たりにしちゃったりします。

観ている景色は変わらないのですが、
「うおっ!マジで私なんておらんやないか!ってか「私」とか作られたレッテルに過ぎないじゃないか!あらゆることに意味なんて元々ないじゃないか!」
みたいな感じになるんですが、
すっ飛ばされた無意識は、これまた無意識に戻ってきたりします。

するとこの経験が一つの体験の記憶となってしまい、
全てに意味がないということを、これまた観念としちゃうんですよね。

すると、今度は、意味がないということに虚しさを感じちゃったりするワケです。

ここでの虚しさは、
完璧じゃない世界、そして足りないという自分。
そして、これを埋めるものなんて存在しない。

といったような感じの虚しさだったりするんですよねー。

でもこれって、足りない自分という分離の観念をすでに無意識に掴み取っちゃってるから起こる虚しさなんです。

何かを埋めなきゃいけないから、意味を求めているとも言えるんですよねー。

道元さんの映画なんかでは、道元さんが悟ったような描写の後、老師がそれを手放せ。
と言うシーンがあるんですが、

そもそも悟りに、悟前も、悟後もないんですが、

あえて言いますと、少々ステージが変わると言えるかもしれません。
わからないことを、わかって掴み取ろうするのが、いわゆる悟前だとすると、
悟後は、わかってしまったこと。つまり掴み取ってしまっていることに気づくステージですね。
ま、ステージとか言っちゃうとこれまた誤解があるのかもしれませんが、、。

ここでもまだ、わかって掴み取ると言うクセが残っていると、
他の人が知らない奥義を身につけたような気分になったり、
何かがわかったような気になったり、
わかったはずなのにまだ苦があることに対してどうしたら良いのかわかからない。
ということになったり、
はたまた、
全てに意味がないことに虚しくなったりするというワケです。

だから、悟りというものは早々に手放せって言われているワケですねー。

ま、実際に手放せとかいっても、無理ですからねぇ。
忘れろ!といって「うんわかった!」となんでもかんでも忘れられませんからね。

でもこれは、単に、掴み取ってしまうクセを見抜くだけで良いんです。
掴み取ったものは全部イメージ。つまりは思い込みなんだと知るんです。

すると副作用的に、掴み取ったものに対する深刻さは減るかもしれません。
つまりは楽になると言うことにもなるんですが、

感覚としては、元々は楽しかなくて、楽じゃないことをイメージで掴み取っているということを知るんですよねん。

 

タクさんセッションではこの辺のことも事細かにご説明しますよー。

takuteto.hatenablog.com