Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

苦が生じるしくみ

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ふぉーい。
おはようございます。
タクさんです。

小学校の時には、一日中軍艦じゃんけんをしてても飽きなかったタクさんです。
みなさんもやりました?
軍艦軍艦チーンボツ。みたいなやつ。

あ、◯×(マルペケ)ってのもやってましたねぇ。
5目ならべならぬ3目ならべみたいなやつ。
あれもずーっとやってました。
相手がいない時は一人でやってましたからねー。

子供の時はそうとう退屈だったんでしょうね。

さてさて、
僕らが頭の中で作り上げるストーリー。
このストーリーは分離の概念によって作られます。

そして、私というのもまた分離の概念によって作られたひとつの観念なんですけどねー。

単に分離とストーリーだけが頭の中で流れたとしても、
そんなの無味無臭なので、特にこのストーリーに惑わされることってなさそうに見えません?

それこそ、ひとりマルペケ遊びと一緒で、
そこになんの拘束力もなけりゃ、
そこに深刻さもありゃしませんもんねぇ。

でもなぜ僕らって、これほどストーリーを深刻にとらえてしまうんでしょう?

今日は、その辺のことについて書いてみたいと思います。

 

グーチョキパーと分けてゲームを遊ぶ。
じゃんけんもまたルールに基づいた遊びであり、
このルールには分離が伴うわけです。

分離というのは、何かしらのルールを作って遊ぶためには便宜上必要になるものですが、
この分離は、単なる分離でしかないので、ここに深刻さは生じません。

この分離に価値という概念がくっついた時に、
深刻さのタネが生じてくるんですよねー。

分離に価値という概念がくっつくことで、僕らは比較の概念というのを手に入れるわけです。
そして、あらゆる分離に比較をくっつけて、僕らは何かを掴み取るんです。

掴み取ったものは、そこに比較の概念によって作られた価値が含まれているんですよねー。
そして、この価値がつけられた途端、僕らは足りないという観念を持ち始めるんです。

もともと、完璧で完全だった全てのなかで、ポーンと「足りない」というニューフェースが登場するわけなんですよねー。

完全の中で、なんの意味もなく「足りない」がただ生じているだけなんですが、「足りない」の中には比較によって生じた価値観が植え付けられているんですよねー。
なので、価値観の中にだけは意味が生じているんです。

この比較と価値観が植え付けられたものを掴み取ることによって、
「足りない」という思いを抱くわけです。

そして、この足りないが、深刻さと探求を生むんです。

足りないというのは「危険だ!」という思いを生じさせたり、
本来の自分じゃ無いという思いを生じさせたりします。

もともと完全で完璧な自分を知っているからこそ「足りない」に違和感を感じるんですよねー。

なので、掴み取っているこれよりも、もっと良いものを掴み取らなければならない!
と考え、
より良い自分のあり方、考え方、生き方。
みたいなことを探求するわけなんですよねー。

でも「より良い」ものを探しちゃてる時点で、もう完全に比較の概念をがっつり採用しちゃってるわけですので、
そこで掴み取ったものは絶対に「足りない」ものになってしまうんです。

だからまず、掴み取らないこと。より良くなろうとしないこと。
なんてことが言われていますが、
それは、
思いを生じないようになるとか、思いを掴まないようになる。
ってことじゃないんです

あ、価値の差なんてないんだ。比較は便宜上存在しているだけで実際は無いんだ。
ってことに気づく練習なんです。
そのことが、見抜かれちゃったなら、もう思いに深刻さはなくなるんです。
深刻さは、価値の差と比較が無いと生じないからなんですよねん。

なので、ガンガン掴み取っても良いし、思いやストーリーを精一杯遊べば良いってことになってくるんですよねー。

 

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