どんなメソッドもワークも「それ」とはあまり関係がない。
でも、観てみるための準備運動にはなるかもしれない。
ってな話を書きましたが、
どんなワークだろうが、メソッドだろうが、宗教だろうが、
好きで楽しいなら全然いいと思うんですけどね。
僕が個人的に嫌いなパターンってのがありましてね。
それが、罪悪感に訴えるタイプのやり方をする先生なんです。
ま、先生はそのつもりがなくて、聞く方が勝手に罪悪感を感じてしまう場合もよくあると思うんですけどね。
それは別に嫌いじゃないんですが、意図的に罪悪感を刺激するタイプが嫌いなんですよねー。
そもそもね。犯してもいない罪悪をね。
犯したかのように自身を責め、苦しんでる人が、
救いを求めた先で、
「あなたにはカルマがある。このカルマを解消しなければ苦しみが続く」
みたいなねー。
んなこと言われちゃうと、キツイですやんねぇ。
僕も昔、そういうことを言われたことがありますしね。
では、カルマを解消するにはどうしたら良いのん?ってなるんですが、
それには、お金を払って癒しのワークをしてもらわなきゃならないってことになるらしくてですねぇ。
もう、めっちゃお金払ってめっちゃやってもらいましたけどね。
なんでも、解消した分、今度は自分じゃないところから入ってくるらしくてですねぇ。
キリがないんですよね。
別のところでは、カルマとは悪しき思考のことで、この思考が起こらなくなる状態にならなきゃならん!みたいに教わったこともありましたが、
それだと、その教義自体も思考じゃないのん???
ってなりますからねぇ。
もうねぇ。
カルマってもんがいろんな意味でつかわれてたりするんですよ。
なので、ちゃんとここで言っておきますけど、
「カルマとは増えたり減ったりするものじゃありません。」
そして、悪いことでもなけりゃ、カルマが苦を生んでいるというわけでもないんです。
なぜならね。
カルマとはカラクリのことだからです。
頬をぶたれたら、ジンジンしますよねぇ。
これがカラクリです。
このジンジンを苦痛と感じるか、
とんでもない快楽と感じるかは人それぞれですが、この反応の仕方が変わるのもカラクリの一部です。
ゲームを作るときにプログラムを組みますよね?
このプログラムには善も悪もありません。単なる文字の羅列でしかありませんよね。
同様に、このカラクリにも善悪はありません。
カラクリによる反応の一部が思考だったり感情だったりするんですが、
その反応がが起きてないなら、単に起きてないだけ、
そして、起きているなら、単に起きているだけなんです。
どちらかの状態を保たなきゃならない!というわけではありません。
このカラクリは減ったり増えたりはしませんが、
カラクリをカラクリだと見抜くことで、深刻さは無くなります。
なぜなら、僕らはカラクリの一部を深刻に捉え、このカラクリからの逃げ場のなさを感じているからです。
なぜ逃げ場がないと感じるのかというと、カラクリを現実と捉えているからだったりするからなんですよねー。
思考も感情も、カラクリの中で起こる反応の一部なんですよね。
そして、その思考の中に自分という観念もあるわけです。
そして、その自分という観念の中に、行為者という概念があるわけですねー。
カラクリの仕組みを解き明かそうとすると、あまりに膨大な複雑さを目の当たりにするかもしれませんが、
ま、カラクリはカラクリですし、、、。と気楽に構えれば良いんじゃないかなぁ?
って思います。
僕らはカラクリを深刻に捉えている間だけ、その深刻さに応じて重たさを感じているわけです。
この重たさがときに苦に感じるというわけです。
深刻に捉えている間は、カラクリは「大マジな現実」を演じてるんですねー。
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