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非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【業界(ごうかい)とは】実は恐ろしい孤独感からの解放のお話03

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はじめに

ふぇーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

今日は、昨日の記事の続きですね。
よかったら、前回の記事を読んでからこちらをお読みいただければ幸いです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

 

takuteto.hatenablog.com

 

さてさて、昨日は阿弥陀さんのお話でおわりましたので、その続きなんですが、
みなさん。くもの糸という物語をご存知でしょうか。

地獄に落ちたカンダタさんが、悪いやつだったんだけど生前に1度蜘蛛を助けたことがあったんですねー。
なので、極楽にいたお釈迦さんが、「よっしゃ!一回だけチャンスをやろう!」
ということで、細〜いくもの糸を地獄に垂らして、手を差し伸べる。

みたいなね。
そんなお話です。

まー僕は、この話で一番性格が悪いのは、お釈迦さんなんじゃないか?
って思ったりするんですが、
ま、それはさておき、

実はお釈迦さんというのは仏教では、厳密にいうと、極楽にはいないんですよね。
お釈迦さんは沙婆(しゃば)にいるものなんだそうです。
つまり、現世ですね。

そして、阿弥陀さんというのは極楽におられる人なんだそうです。

まー簡単にいうと、現世にいるブッダがお釈迦さんで、極楽にいるブッダが阿弥陀さん。
みたいな感じでしょうか?

詳しくはないのでよくわからないですが、
まー阿弥陀さんというのは、そういう存在なんだそうです。

なので、くもの糸にでてくる極楽にいるお釈迦さんというのはちょっと間違いなんですよねー。

ま、どうでもいいんですけどね。

 

阿弥陀様の教え

ちなみに、この阿弥陀とはどういう意味を持つ言葉なのかというと、
量(はかり)しれない光を持つ者
量りしれない寿命を持つ者
を意味するのだそうです。

この世で、僕らが見ている風景。これはすべて光です。
なので、計り知れない光とは、ありとあらゆるもの全てだと言えそうですね。

そして、計り知れない寿命を持つもの。
これはもう、時間を超越したものだといえそうです。

ちなみに、時間という概念は思考の中だけにしか存在していません。
この思考はモノではありません。一つの働きです。
実体のない働きなので、イメージですね。

その思考の中だけに時間があるだけですので、
実際にあるのはもう時間を超越した全てしかありません。

なのでね。

「阿弥陀様に帰依する」
とは、言い換えると、
今ここに在ること。
これを示唆しているんじゃないのーって思うんですよね。

そして、この今こことは、あなたそのモノなんです。
つまりね。

阿弥陀さまは、あなたそのものなんです。

ただ、このあなたは、あなたが思っているあなたではないんですよね。

阿弥陀様という本来の自分を一定の思考の枠組みに閉じ込めることで、あなたは仮の自分を作っている。
というわけです。

他力本願

だから、その仮の自分を一回置いておいて、他力に任せてみなさい。
というのが、きっと他力本願が指し示すことなんだろうなー。
なんて思います。
孤独というものも、思考の枠組みに自分を閉じ込めることによって起こる錯覚の一つですからね。
それをちょっと置いておこうよ!っていう話なんですよねー。

自分という枠を作ることで、本来阿弥陀様だった自分は途端に不足感に苛まされちゃいます。
だって、本来は無限の存在だったのに、途端に在るはずのない枠ができてしまいますからねー。
その不足感はとんでもないものになってしまうんです。

だからこのかりそめの自分は、
目立ちたがるし、力を欲しがります。
関心が欲しいし、特別になりたがるんです。

そして、この欲求は必ず挫折しちゃうんですよね。

なぜなら、枠組みは限界を作ってしまうからですね。

そして、その挫折の一つ。
それが孤独感なわけです。

悲しみが色濃いほど強い愛がある

ですがね。
悲しみは別に悪いものではありません。
悲しみが色濃ければ色濃いほどそこに強い愛があるからです。
執着の強さも裏を返すと、阿弥陀さん、つまりは本来の自分への強い思いです。

自分という枠組みを放棄してやれば、自分という枠組みは消え去ります。

自分という枠組みが消え去ると、そこに孤独はありません。

この放棄の呼水となってくれるのが、
「かしこじゃなくていいじゃん!アホでいいじゃん!」という言葉なんです。
それは言い換えると、
あなたはそのまんまで良いんだよ!という許しなんです。

この許しに浸ってやるとねー。他力にお任せできるんです。
この他力とは、本来の自分だということでもあるんですけどね。

業(カルマ)は忌み嫌うものじゃない。

枠組みに入れてしまうこと。
これが業(カルマ)です。

この枠組みを通してみる世界が、業界(ごうかい)です。

ですが、このカルマは忌み嫌うものではありません。
このカルマを手放せー!ってよく言われていますが、
カルマというものは、なんていうか、こう聞いたからこうだと思った。
みたいなね。
なんていうか、仕組みでありカラクリなんです。
呪いとか悪いもの。的なものではありません。
単なる仕組みなんです。

仕組みに良いも悪いもありませんもんねー。

だから、この仕組みをなんとかしようとしなくても良いんです。

単にこの仕組みが仕組みとして見破られること。
これが手放しなんですね。

ちゃんと起こることは起こります。
悲しいも嬉しいもちゃんと起こるんです。

手を叩いたなら、パンと鳴る。

これが、
手を叩いたら、びよ〜んと鳴るに変わるわけがありませんからね。

ちゃんと手を叩けばパンとなる。このカラクリをちゃんと知っている。

これが、業(カルマ)を知るということなんですね。

そうすると、業(カルマ)への変なこだわりはなくなります。
だってこれは仕組みですからね。こだわるものじゃありませんもんね。

愛していたなら、悲しみもある。それで良いし、それが良い!
というわけなんです。

というわけですのでね。
まずはかしこにならなくて良いじゃん!ってね。

自分を許してあげて、他力にお任せしてみたら良いと思います。

するとね。その他力こそが本来の自分であり、今まで思っていた自分は仕組みの一部だったことに気付けるんじゃないかな?って思います。

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