Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観るための準備運動

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はい!
おはようございます。
タクさんです。

僕はねー。
目覚めとかについてできることって、
観ることくらいしか出来ないって思ってるんですよねー。

世にはいろんなメソッドが溢れていますが、
これらってぜーんぶ、観るための準備運動のようなもんじゃん。
って思っております。
だから、もう観てみる事が出来るなら、あらゆる準備運動は卒業して、
観てみたら良いと思うんですよね。

もちろん、観るだけって単純そうで結構、
慣れてなかったりするかもしれません。
難しいんじゃなくて、慣れてないだけなんですが、
慣れるには色々と準備運動をしてみるのはいいと思うんです。

瞑想をする為のあらゆる手法だったり、
座禅の作法だったり、チャネリングだったり、
リラックスするための、いろんなクリアリングだったりねー。

でもね。
これらは準備運動ですからね。
ランニングをするのに準備運動をするのは良いのかもしれませんが、
いつの間にやら準備運動に必死になり過ぎて、
いつまでたっても準備運動のゴールが見えない。
なんてことになったりするのなら、それは無意味ですからねー。

「いつになったら、ランニングがはじまるんですかーーー!!!」
ってね。
いや、もう走り始めなはれ、、、。
って事ですもんねぇ。

 

じゃあ、どこが準備運動の終わりなのよ。
と言いますと、思考なり感情に対して、
「へぇー。起こってるねー」
ってね。単に置いておける。
これがちょっとでも出来るなら、もう準備運動はいらんやろ。
って思ってます。

ありとあらゆるメソッドや非二元の知識も、
これまた準備運動ですのでね。

知識を深めても意味はありませんので、
思考や感情を置いておけるのなら、もう知識は必要ありません。

「へぇー。起こってるねー」
ってね。単に置いておいてみたら良いんです。
これが観るって事ですからねん。

最初はね。
うん。出来たよ!
で??

ってなると思うんですよね。

何故そうなるのかと言いますと、
置いておくということをどこか、何かに到達するための手段だと思ってたりするからなんですよね。

それだと、置いておくというのも、これまた準備運動となってしまいます。

でも実はね。
置いておくこと。もうそれでゴールなんです。
慣れないうちは、
へ?だって何にもないやん!
愛とか分離のなさとか感じられへんやん!

って思うかもしれません。

しかも、ものすごく平凡でつまんないですからねー。

でも、何か素晴らしいものがあるはず!というのもこれまた思考ですのでね。
これも置いておいてみるんです。

慣れないうちは置いてるつもりになってても、まだどこかで何かを掴んでたりするんですよね。
慣れていくと、知らずに掴んでたものも発見できてきますし、置いておけるようになってきます。

すると、どこかの時点で、当たり前がひっくり返るかもしれません。

今まで観念を土台に立っていた立ち位置が、崩れ去り、
置いておく方に立ち位置が移ってくるんです。

いわゆる観賞者意識のようなものと言えるかもしれません。

ただ、これもまだ分離が残っていて、いずれこの観賞者と観賞の対象の分離も溶けていきます。
もう観るということすら意味を失います。

すると、立ち位置なんて、実際にはないのに、
なんでどこかに立ち位置を求めてたんだろう?
なーんていう元々あった「当たり前さ」が目覚めるんです。

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