Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せは常に不幸せと一体

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至福は快楽ではない。至福は幸せでさえもない。幸せは常に不幸せと一体になっている。そして、快楽は常に痛みと一体になっている。両方を落とすのだ。あなたは一部だけを選ぶことはできないのだ。そして、そのとき湧き上がってくるのが至福だ。(osho)

はい。
というわけでおはようございます。
タクさんです。

冒頭の言葉は、oshoって言うインドのおじさんの言葉です。
ぼく、この人のゆーっくりとした話し方がちょっとツボでして、、、
もうお亡くなりになってはりますけど、もし、面と向かって話す機会があったとしたら、笑わずに話を聞いてられるのか?ちょっと自信がないです。

あ、oshoファンの方の気を悪くしたのならすいません。
モチロンとっても素晴らしい方だとは思ってます!

ただ、話すのが遅いわぁー。
戦場カメラマンの渡部陽一さんなんかよりも、もっと遅いですからね。

 

おっと、今日は話しかたの遅さについて書きたいんじゃなくてですねー。
なんかありがちな誤解としてある、
「それ」を知ると、シアワセルンルン♪になるんでしょ?
っていう誤解について書いてみたいと思います。

アンタいつも、ノリノリなんや!って言ってますやん!
ってねー。言われるかもしれませんが、
まあこのノリノリってねー。
不幸と幸せという選択肢の中の幸せの方になる。
って言うことじゃないんですよねー。

不幸も幸せもノリノリの中にある!
って事なんです。

それはリラックスの奥にデーンと構えてるイノチの源泉なんです。

この源泉がノリノリだというわけです。
で、全てはこの源泉と変わりがあるわけではないんですよね。

温泉の源泉も、湯船にある温泉も全く同じものであるのと同様に、
海からすくったコップの中の水と、海の水が同じものであるのと同様に、
イノチはくまなく全てとして在るわけなんです。

幸せと一緒に不幸も落とす。
快楽と一緒に苦痛も落とす。
あなたはどちらかだけを得ることはできないのだー。

みたいなね。
oshoさんの表現もありますが、

うーん。これもメッチャゆっくり言ってたんやろか?
といった問いは置いておいて、
一見、両方落としちゃうなんて、生きる意味すら失いそうな気もするかもしれません。

それらを落とした先には、無味無臭な虚無しか残らないじゃないか?
なんて感じたりもするかもしれませんがねー。

実は僕らは何かを掴み取ることによって、
全てをとても限定的な一部として捉えていたんですよね。

どういう意味かというと、
海の中で水を手ですくって、その手の中の水しか見てなかった。
みたいなニュアンスです。

掴み取るためのこの手が邪魔になって、その奥に広がる全てを見落としていたんです。

なので、手にすくった水を手放してしまったなら、何も残らないんじゃ無いのん?
そんなん、虚無じゃ無いのん?
っていう気になってたんです。

もし、手放す体験があなたに起こった時、
最初はもしかしたら、目的を失ったような何とも不安定な感覚を感じるかもしれません。
でもその掴みとろうとする衝動であるその手が、
降ろされるに従って、その奥に広がる水平線。
全てが現れてきてくれるんです。
あなたの手から離れた水も含まれた全てが
すでに一番身近な「ここ」に拡がっていたんです。

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