Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求の終わりと、深刻さの終わり。

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探求とは何かをつかみ取ろうと、掴み取るものを探し続ける心の働きです。

探求の終わりとはその働きが見抜かれるだけのことです。

なので、掴み取る能力を失うわけではありません。

だから、常にポーッとしてたり、刹那主義的に生きる人間になるということではありません。
ただ、そうなっても別に良いやんという感じにはなります。

 

そこは自由になるんです。

この探求の動きをただみてあげることができてくると、

今まで、探し、掴み取ったものだけの世界だけで生きてきて、
何にもなさという空白を埋め続けていたことに気づいてきます。

そして、つかみ取ろうとする衝動や、過去に自分の中で抑圧してしまいこんでいた感情だったりが出てきたりして、それが探求のクセづけになってたことに気づきだします。

そして、この探求を通して世界を見ていただけであって、外側は自分の投影やったことも明らかになってきます。

そして、そのうち探求のエネルギーは力を失います。

すると、今まで埋めようとしていた何にもなさが色濃くなっていき、
その何にもなさの方があたりまえの大前提であって、
つかみ取ろうとする動きや掴み取ったものの判断の中だけで生きてたことは独り相撲をしてたような感じにすぎないといったことが明らかになってくるんですね。

今まで、掴み取った世界のほうがあたりまえやったけど、何にもなさが当たり前になってくる時、

まるで表と裏がグリンとひっくり返るみたいな感じで、
世界もひっくりかえるように見えたりするかもしれません。

そうなると、行ったり来たりしてたように見えた世界も、
あー、誰も何もしてへん。行為者すらおらんし、
そしてその大前提の中で、自由に行為を楽しんだらええねんやん!

となってくるんですよね。

行為者がいないを持ち込んで生きるっていうことじゃなくて、
今まで通り普通になるわけですが、探求の必死さ、深刻感は薄れるんです。

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