Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元を心の拠り所に、、、

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僕らが普段何気なくあると思っている心(ココロ)。
でも、じゃあ、心ってなに?って聞かれると、
んー。よくわからなかったりするんですよねー。

ある時は、信念だったり、
ある時は、「これが日本人の心だ」みたいな文化的なものだったり、
罪悪感を「心苦しい」って表現したりね。

そうやって見てみると、心っていう個別の何か?個別の働きっていうのはなくて、
思考とか感情とかを総称して心って呼んでるだけだったりするんですねー。

で、感情は思考を生み出し、思考は感情を生み出し、って普段はやってたりするんですけど、やっぱり、嫌な感情って嫌なもんじゃないですか。
そういう嫌な感情って、嫌な思考を生み出したりしますからね。

不安とか、恐怖とかねー。

あとは、漠然とした不足感だったり不自由感だったりね。

で、非二元のメッセージに触れてると、
どうしてもそういった心の不安感とか不自由感を払拭してくれそうな
そういったイメージを持ってたりするんですよね。

至福だったり、普遍の愛だったり、
完全で完璧だったりね。

で、そういったメッセージ触れて、
ついつい心の穴を埋めてくれるものじゃないだろうか?
ってな、そんな気がしちゃったりしちゃうんですよね。

心は常にそういった不満や不安を埋めてくれるものを探し求めていますからねー。

なので、そういったメッセージを拠り所にしようとしちゃうんですよね。

結局のところ非二元のメッセージって、
そういった思考とか感情とか、
そういった心を土台とした世界の見方。
それだけじゃないんですよん。
そういった世界の見方って単なる一部でしかなくて、
それを全てだと思い込んでるのって、幻想みたいなもんなんですよん。

っていうね。
そういうメッセージだったりするんですよね。

なので、そういったメッセージを心の拠り所にしようとしたり、
スピリチュアル的な考えを補強するものにしようとしたりね。

そういうのって結局のところ、まだ心を土台とした考え方から抜けきれてないっていうか、
結局、単なる一部である心の働きを土台として世界を構築するっていうクセから抜けられてないっていうことになっちゃったりするんですよねー。

心は常に何かが足りないんで、どうしても何かしらを掴みたがったりするわけなんですけど、
それって、ある種の自然現象みたいなもんなんですよね。

たんなる自然現象をどうも自分ごとにしちゃったりするもんだから、
どうしてもこのクセの中に入り込んじゃう。
みたいなねー。

そんなところがあったりするんです。

で、悟りといったような表現に触れると、
こういった心の働きが無くなって、
自分がなくなって、自由になれるんじゃないか?

そんな風に考えちゃったりしちゃうんですよね。

はたまた、一瞥体験とかがあったりして、
全ては完璧なんだー!ってな感覚を生で感じたりしてね。

そんな体験があったがために、
自分はいないんだー!みたいな思いを逆に掴んじゃって、
なんか不安があったりしても、
でも自分はいないんだからー!
確かに実感としてそういう体験もあったからー!
って、不安をなきものにしようとしたり、しまい込もうとしたりね。

結局、これも、心が不安を埋めたい!っていう思いに巻き込まれちゃったりしてるわけで、
どうしても、土台が心、つまり、感情や思考にあったりするんですよね。

で、そういったものを土台にしている限りは、いつまでたっても
拠り所を探し求めるっていう探求が続いちゃったりするんですね。

ただ在るっていうのは、そういった心を土台としないで、
思考や感情があるのをただ見てみるっていう感じなんです。

思考や感情も普通に起こり続けますが、
それをコントロールするでもなく、
起こるままにしておく。
ただ、みてみる。

外に降る雨や外に吹く風のように、
今日も絶賛、通常運転中ですなー!
てな感じで見てみる。

で、そういった思考や感情を土台にするんじゃなく、
ただ在るに溶け込んでみる。

そのただ在るを土台にしてみるって感じなんです。

普通に思考も感情も衝動も普通に起こり続けますが、
それは普通に今まで通り起こってるままにしつつも、
ただ、在るんです。

起こることは起こり、そして消えていくんです。

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