全部あるって言うことは、すなわち何もないってことになりますよね!
ってね。
このブログでも
まるで当然のように書いてたりするわけですが、
ちょwww、何ゆーてるねん!
わからんわ!
ってね。
指摘もいただきましてね。
我ながら、ハショリすぎじゃ!って思ったので、
どういうことやねん??ってなことを書いていきたいと思います。
ちょっとその前に、「在る」について書いてみます。
元々ね、在るしかないわけなんですよね。
私は在るの「在る」です。
この「在る」ってのに、ちょっとした誤解があるかもしれないんですが、
この在るっていうのは、いろいろな言葉で言われてたりします。
真我。
静寂な場所。
それ。
空(くう)。
ワンネス。
いまここ。
etc…
ってな感じですかね。
他にも「宇宙霊」とか「神」とか?
なんでもありか!ってなくらいいろいろと言われてたりしますよね。
しかも、それを聞いた人によって、言葉からくるイメージの受け取り方も違ってきますので、解釈となるともっといっぱいあるのかもしれません。
ちなみに、「在る」しかないやん!ってなりますと、言い方なんて
割とどうでもいい!
って感じになります。
なので、僕はあまり色づけをしないっていう意味で「それ」とか「これ」とか言っとるわけですけどね。
いずれにしても、そういった言葉を聞くと、どーしても、なんか「特別」なもんとして受け取られたりしますよね。
でもそうじゃなくて、ホントに今、感じている自分。
それが、そのまま「在る」なんですよね。
そこで、身体とか感情とか思考とか自分とか。
そういった器の中にその「在る」を閉じ込めとるんですよね。
ホントはそんなもん閉じ込めることなんてできないわけですが、イメージの中でだけそんな風に見なしているんです。
するとね、
イメージ上であれ、閉じ込めて同化させているわけですので、
身体や感情がなくなると「在る」が損なわれるんじゃなかろうか?
みたいな恐怖感が生まれたりするんです。
で、「在る」っていうのはあまりに身近すぎていつしか、身体や感情や思考、それらをまるっと丸め込んだ「自分」という概念。
そっちだけになってしまって「在る」が見失われるんです。
そう聞いちゃうと、分離の意識が前提になってる思考段階では、
では、思考とかを取り除くとええんやな!
って思ったりするわけですが、
そう思っとるのも思考やっていうジレンマがあったり、
そもそも閉じ込めてるっていうのもそうみなしてるだけで、ホントは閉じ込められてすらいないわけでして、、、
まさにいま、そのまんまが「それそのもの」なわけなんです。
どこかにあるもんでもなく、特別なものでも無いわけなんです。
そしてもうそれが全てであって、全てであるからには思考とか感情とか、自分っていう概念とか、そんなのもまるっと含まれるわけです。
全てであるからには、もうそれ以外が無いんです。
というわけでやっと本題に入るわけなんですけど、
「じゃあなんで全てであるという事はなんも無いってことになるのか?」
といいますとですね、
何かがあると言うからには、比較対象が必要になるんです。
つまり、何かがあるからには、無いってのが必要になるんです。
でも全部しかない。
全部だけがあるってなりますと、もうここで、
あるとか無いっていう概念が成り立たなくなるんですよねん。
意味を失うんです。
比較対象がありませんのでねー。
無いと言うものがないと有るは成り立たないんです。
有ると無い。
無と空。
空と色。
こういった区別が成り立たたなくなるんです。
二元は成り立たない。
二元に非(あら)ず。
非二元。。。
それが明らかになるんです。
色即是空、空即是色。
これは、
有って、無い。
起こっていて起こっていない。
と、おんなじ意味になってくるんですよねー。
せやからね、
全部あるになると、同時になんも無いになるんです。
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