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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

幻想の世界と、真理の世界が生み出すジレンマ03

それのこと 悟りとは

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おはようございます。
タクさんです。

今日は、おととい、昨日と続いた記事の最後となります。
良かったら、昨日とおとといの記事も読んでもらえれば、
流れが分かりやすいかも?と思います。

さて、
今日は昨日の続きで、「それ」へのアプローチについて書いていきます。

「それ」にたいするアプローチはいろんなものがあったりしますよねぇ。

禅の修行なんかでは、
長い間、ただ座禅をして見たり、
目の前のことだけに集中する修行をしてみたり
妙な禅問答があったりね。

瞑想ってな方法はもう定番ってな感じでよく見かけますね。
瞑想と一言で言っても、色々ありまして、
足を組んで手はこうして、マントラを唱えつづける。
みたいなものがあったり、
自分の中に気づいたものを全部認識していく。
みたいな方法があったり、
伝統あるマントラを伝授してもらうものがあったり、
ゆったり座るだけだったり、
チャクラをどうにかこうにか意識してどうにかこうにかするものだったり、
ま、色々ありますよね。

他にも、
何日間か一切言葉を話さずに過ごすものがあったり、
滝に打たれたり、
考えない練習をして見たり、、

癒しを繰り返したり、
自分の中にあるカルマ?(考えクセ)をどんどん手放していく方法があったり、

とまあ、色々とあるわけです。

で、いろんな方法があったりするわけですが、共通して言えるのは、
いろんな方法の先に「悟り」という何かがあるわけじゃない。
という事なんです。

じゃあ、なんで長い歴史の中で、ありとあらゆる方法が生まれてるわけ?
方法の先に「悟り」がないんやったら無意味じゃん?
ずっと間違ってたって事???

って思われるかもしれませんね。

これ、別に間違ってないんですけどね。
方法にこだわってしまうと、方法とかアプローチを一つの概念としちゃって、
その概念が付け加わった分だけ、その概念上で物語を作っちゃうって事なんですね。

ま、ちょっとややこしいので、一旦置いておきまして、
まず、
前回の記事で、

「目の前の現実は幻想とか物語みたいなもの。
っていう言葉が指し示していることは、
すでにクセづけされて、無意識的に作り上げてる部分に対して言われているわけなんです。」

ってなことを書きました。

この無意識に作り上げられている概念の大元にあるのが、
分離の概念になるんです。

この分離は「私」という個別の存在がいるという概念から現れてます。
私という個別の存在がいるから、私以外の誰かもいる。
私以外の誰かも個別に存在しているので、誰かと誰かがいて、
それらの人々以外にもものがあったり、現象があったり、、、
と言った具合で、分離の概念がどんどんと付け加えられていくんですね。

そうやって概念化された世界が構築されているわけですが、
この概念化された部分について、分離の概念上に作られた物語のようなものだと表現されているわけなんです。

なので、個別の私という存在が本当にあるのかどうか?
みたいなことをただ、見てみればいいんですー。
てなことを、このブログでは書いてるわけなんですけどね。

すると、この私という概念の奥に自我ちゃんの動きみたいなものが明らかになってくるかもしれません。
自我ちゃんの動きっていうのは、ただ、自然現象のようなものと同様に起こってるわけなんですけど、それが自分に起こっている。自我ちゃんとは自分のことである。
っていう概念上のクセがどうしてもあるものですから、そこに巻き込まれちゃったりするわけなんですよね。

じゃあ、それを単に見ればいい。
見ることによって、それが自分であるっていうある種のウソさが明らかになる。
っていうことなんですけど、そこにちょっとしたネックがあったりするんです。

そのネックがあるので、なかなか単に自分を見るっていうのが難しく感じられたりするんですね。

このネックってなんですのん?
と言いますとね。

自分を見るっていうのは、自我ちゃんの動きを見ることになるわけなんですけど、
この自我ちゃんの動きっていうのは、どう言った仕組みで動いているのか?
と言いますと、基本的には大元には生存本能的なものが原動力になってたりするんです。

それは、身体とか心を維持させようとするものなんですけど、
それを維持させるためには危険を避ける。
ってなことも含まれてたりするわけなんですよね。

危険を避けるっていうのは、危険なことに対する記憶があったりするんです。
そこでその記憶を判断基準として、危険なことを避けようとしているわけです。

もっと大元の方を見ていきますと、死の恐怖といったような感覚があったりします。

で、自我ちゃんを見れば見るほど、
抑えていた恐怖の記憶みたいなものが露わになってきたりするんです。

僕らは基本的に、概念上に作られたイメージの世界に生きています。
つまり、考えによって作られたイメージを世界だと感じてたりすることが多いわけなんです。そしてそのイメージをリアル化してるんですよね。
このイメージはたんなるイメージに過ぎないので、実体はないんですけど、
どうしても世界をイメージ上で捉えるクセがあったりするので、
恐怖のイメージは普段は抑え込んでたりするんです。

イメージは本来イメージでしかないので、恐れるようなものじゃないんですけど、
どうしてもそのイメージにリアリティがあるように感じているので、
抑え込んじゃうんですよね。

で、そういったイメージを見るのも怖かったりするんです。
その怖さが怒りを産んだり、不安を生み出したりしてるわけなんです。

こういったイメージはイメージに過ぎないので、リアリティは無いってのが、
ある程度明らかになってきたとしたら良いんですけど、
それが明らかになるには、単に起こってる自我ちゃんを見て見ないと始まらない。
ってなこともあり、じゃあ見てみようとしても、見たく無い部分は無意識に抑え込んじゃう。ってなことになったりするというジレンマがあったりするんですね。

で、
そういった自分を見るという方法論として、
リラックスして思考を見つめてみる。
とか、
思考を追っかけないとか、
心の癒しの方法論とかがあったりするんだと思うんです。

また、人間はどうしても概念に概念を重ねて複雑化するクセがどうしてもあるので、
伝説の聖者っていう概念を作り上げてみたり、
伝統の方法論ってな概念を作り上げてたりするわけなんだと思います。

なので、伝統とか権威みたいなものについては、別段、気にする必要なんてなくて、
ただ見てみるのが辛く感じてうまく見ることすらできそうに無いのであれば、
考えをリアル化しちゃうクセを見ていけば良いんですが、それもシンドイようであれば、
みるための何かしらの方法論の助けを借りるのも良いと思うんですよね。

癒しでも瞑想でも、心理学的な方法論でもね。

ただ、見ることが目的になってしまうと、また概念に概念を重ねるっていうクセの流れに乗っかっちゃうので、ある程度、見ることができそうなら方法論はとっとと手放してしまったら良いと思うんです。

方法論にハマると、自我ちゃんの動きを完全に起こらなくなるまで極めなければならない!
カルマを全て手放さなければならない!
みたいな、変な概念が生まれてきたりしますからねー。

自我ちゃんは自我ちゃんとして、そういった動きは普通に起こり続けますので、
恐怖を完全克服しよう!としても無理ゲーなんです。

自我のない自分を作る!
みたいな変な概念が生まれちゃったりします。
自我ちゃんの動きを自分だとしているくせに、
その自分がない自分になろうとするっていうのはもう論理が破綻してますよね。

ただ自我ちゃんは他の自然現象と同様に起こってるだけ。
そして、全ての起こってることは、概念上であろうがなかろうが、
全部、「それ」の表現としてただ在るんです。

その辺が明らかになってくると、これは自我ちゃんの幻想だからーって否定することもなくなってきます。
それが起こってるのをただ、愛おしく抱きしめてあげたら良いんだよねー。
ってな感じです。
全て、「それ」の表現として在るってことが明らかになってくるんです。

真理の世界と幻想の世界なんてのもなく、目の前の現実がそのまんま「それ」そのものであることが明らかになるんです。

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