はじめに
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
初めましての方、どうもきていただいてありがとうございます。
このブログは、大量の記事がありますが、気が向いた記事だけ読んでいただければ幸いでございます。
さて、
「なんで、探究の終わりがこないんでしょう〜。」
「なぜ、僕らは、わざわざ「それ」を見失う必要があるのん??」
ってねー。
思っちゃうかたも多いかもしれませんが、
それは、自我ちゃんにとって、探究がとっても魅力的だからなんですよね。
この自我ちゃんは魅力的じゃないものには興味を示しません。
どうでもいいことは見えないんですよねー。
そして、探究は常に「足りない」に向けられます。
どうでもいいことには目を向けられません。
どうでもいいことは満ち足りているものです。
空気は足りなくなると、求められますが、満ち足りている時は、
思いの中には入ってきません。
だから僕らは満ち足りているものは見失っているんです。
そして、「それ」はすでにここに在り、満ち足りていますので、
自我ちゃんは「それ」を見つけることはできないって寸法なんですよねー。
自我ちゃんは何もしないをできない
だったら、どうしたらいいのー!
って話なんですが、それはもう探さなくていい、何もしなくていいってことになりますが、
自我ちゃんというのは、働きですので、何もしないということはできないんです。
これは走りは止まることができない。みたいな感じです。
走りという何かはいませんが、働きはありますよね。
自我ちゃんというのもそういう類の働きなんです。
なので、どうしようもないんですよね。
つまり、そのまんまで良いってことになるんです。
「それ」は、自分が素晴らしいものを手に入れるということじゃないんです。
探究はとっても魅力的なんですが、同時に僕らはすでにもう「それ」であり、
ゴールにたどり着いているんですよねー。
自我ちゃんにはあまりに平凡なそれ
「それ」はあまりに平凡です。
平凡なので、手を掛けるつかみどころはありません。
のっぺらぼうのようなものです。
特徴がないんですよね。
だから、なんでもないものなんです。
でも、自我ちゃんは、なんでもないものを認めてはくれません。
だから、素敵なものを探すわけですが、素敵なものというのは、比較の概念の中にしか存在しないんですよねー。
特徴やつかみどころも比較の概念の中だけにしかないんです。
そして、比較の概念は、あくまでも概念なので実在しないんです。
だから、自我ちゃんは、実在しないイメージの中でもっと素敵なものを探し求めてしまうわけなんですねー。
探究は魅力的
自我ちゃんにとって、探究はとっても魅力的です。
なので、常に魅力的なものを求めつづけ、探し続けるわけです。
そして、その探究は一つのアイデアを植え付けます。
そのアイデアとは、
「それを見つければ、自分はもっと素敵になれる」というアイデアです。
だから、それを探し続けるわけですが、
このアイデアが高まってくると、今度は
「自分は素敵でなはい」という錯覚を生むんですよね。
そして、素敵ではない自分という錯覚を掴み取ってしまうんです。
深刻さの芽ばえ
素敵ではない自分という錯覚を掴み取る際には、やっぱり比較の概念が採用されます。
ありとあらゆる比較を利用して、自分は素敵ではないということを証明しようとするんですよねー。
こうなると、素敵な探究は、深刻さを帯びてくるんです。
自分が素敵ではないと、なにやら、自分が脅かされる。
みたいなね。そんな錯覚が生まれるからなんですよねー。
そうやって、探究は少しずつ深刻さが増してくるんです。
すると僕らは、この深刻さに苦しさを感じ始めちゃうわけなんですねー。
この全てが、イメージの中で演出されているんです。
深刻さの卒業
比較の概念はあなたの中で起こっている思い込みの一種です。
これは、
白と黒、赤と青と分ける場合には、便利に作用します。
ありとあらゆる比較対象には、本来価値の差なんてものは存在しないんです。
目の前のあるがままの平凡さ。
これを受け入れてあげることにより、価値の差は消えていきます。
そもそも、差なんて付けなくて良いですからねー。
そして、自分自身の平凡さを受け入れてあげるほどに、比較の概念や、条件に縛られないあなた自身が目覚めます。
もともとの無条件なあなた自身に、足りないものはないんですよねー。
そのことが見抜かれるほどに、深刻さは役割を終えていくんです。
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